プログラマーのジレンマ」を読み終わった。とても刺激的な本だった。興味深かったのは、結局分厚いこの本がいいたかったことは、江島健太郎氏の「LingrRejawサービス終了のお知らせ」という記事に通じているという点だろう。つまり、革命を起こせるのはチームではなく、個人でしかないということだ。これからの時代は、これまでにないほど、プログラマが求められる時代になるだろう。それは凡百なプログラマではなく、圧倒的な力を持った一人のプログラマである。chandlerの失敗は、チームで開発してしまったことによるのだ。少なくとも、最低限のプロトタイプまでは、一人にやらせるべきだったのだ。だいたい、ケイパーにその力が無かったのが問題なのだ。この本を見ていてイライラしてきたのは、プロダクトマネージャだとかデザイナーとかがうろちょろするわりには、プログラマの存在感が薄いことだ。口ばかり達者なやつらが方向性ばかり議論していて、ちっともコードが出来ていかない。方向性が絶えず変化することで、出来上がったコードも絶えず瓦礫となっていく。デザイナーやマネージャは不要である。そんな役割が必要なプロジェクトはすでに破綻している。口先しか能の無いやつらにおまんまを食わせてもむなしいだけだ。もちろん優れたマネージャがいるのは知ってる。しかし、大半はそうじゃない。プログラマとして無能だった連中が歳を無駄に重ねて到達するゴミの領域でしかない。歳をとった無能なやつらは、チームリーダーやら品質管理やら、無能におあつらえ向きのポジションしか与えられていない。私はこの本を読んではがゆい思いを持った。私はショーペンハウアーと同様天才主義者であるが、私自身は天才ではない。情けないことにいまだ凡百である。今担当しているコードのロジック破綻を発見してしまい、回避方法を月曜までに思いつかなければならないが、こうして駄筆をふるっている次第である。さて、chandlerをダウンロードしてきて起動してみると、私のマシンでは30秒以上かかった。ずいぶんな品質である。立ち上げに30秒以上要するようなスケジュール管理ソフトなんて誰が使う気になるだろうか。インタフェースもぐちゃぐちゃで何をやればいいのかさっぱりわからない。ソースコードもチェックアウトしてきたので、しばらく眺めてみようと思う。「プログラマーのジレンマ」は半分である。残りの半分はchandlerのコードに書かれているのだろう。我々はここから学ぶべきことがあるはずだ。それはプログラマの意味である。世間ではソフトウェアは難しいといわれる。ムーアの法則でハードウェアはいくらでも進化しているのにプログラマは取り残されていると。私はそうは思わない。ソフトウェアは難しくない。少なくとも業務で開発するソフトウェアは簡単である。凡百なプログラマたちで仕事をとりあえず終わらせられているのだから間違いない。だが、そんなプログラマに未来はない。近い将来、彼らは皆失業するか無能なマネージャや営業になっているだろう。私自身その可能性(失業)を否定できない。ソフトウェアはもっと難しくならなければならない。凡百なプログラマが千人公務員のように積み重なっても何一つ出来ないくらい難しくなる必要がある。ふるいが必要なのだ。今はプログラマが多すぎるのだ。大衆に創造は不可能だ。大衆は消費しかできない。プログラマの大衆をかき消す必要があるのだ。私は力が欲しい。世界を屠る力が。プログラマにならそれが可能なのである。winnyを作った金子氏は少なくともその一端を見せてくれた。プログラマの未来を見せてくれた。