非常に問題と思われる記事を見かけたので言及しておかねばならない。「ナマ足「もうださい」 女子高生はロンスカブーム 奈良」というがそれである。このタイトルを見たとき、私は焦点を消失しかけた。諦念というよりは怒りを覚えた。女子高生にではない。我々にである。私が都会で暮らすようになってまず驚かされたのが、女子高生たちのスカートの短さであった。以前も書いたが、日本の駅というのは非常によく設計されていて、地上1階の高さのホームに到達するためにわざわざ長い階段を上って地上2階部分の高さの改札を抜けねばならないようになっているものが多い。すなわち見上げれば、いつもそこには生足があった。サラリーマンというのは地獄である。その地獄の一丁目が毎朝の通勤である。ましてやこの蒸し暑い時期や夏場など、もはや線路に身を投じるのになんらためらいを持つ必要はないようでさえある。ハゲちゃびんや強烈なワキガ、もう一週間も風呂に入っていないような汚れた襟から立ち上る汚臭。ニキビをつぶしたあとの目立つ火星人の腐ったようなおっさんどもの汚顔。満員電車で四方をおっさんどもに囲まれようものなら、「これは悪い夢ね」と目と口と鼻と心をきつく閉じていなければ精神がもたない。いいやもう精神など崩壊してしまった。だが神様はちゃんといて、地獄にだって仏はあるわけで、それが女子高生の生足であった。たとえ七方をおっさんに囲まれても、残りのひとつに女子高生さえあれば、我々は闘うことが出来た。今日よりもよりよい明日を信じて顔を上げることが出来た。たとえ視線は下を向いていようとも。私はただの生足フェチの変態であろうか?いやそうではないのだ。階段の途中で周りを見てみるがいい。サラリーマンたちが恥ずかしげに、上の方をチラ見しているのは誰もがご存知のはずだ。彼らが重い足を一段上へ進めることが出来たのは家族のおかげではない。女子高生のおかげであった。もし女子高生がいなかったら、私などとっくにニートに戻っていたであろうし、線路に飛び込む壮年の数は今よりももっと多いに違いない。ひょっとすると教育などというのは体のいい言い訳で、これこそが真なる目的であったのではないか。白という色はあらゆる光を反射してそうなっているらしいが、女子高生の生足の白さはあらゆる穢れを浄化してくれる。我々が彼女らの生足から受けた利益は計り知れない。しかし、我々は彼女らに何かしてやっただろうか?彼女らは金銭的に得たものがあったのであろうか?我々は明らかに甘えすぎた。水と安全と生足はタダだと決め付けていた。実際には、彼女らの生足は生ものであり、そのメンテナンスには莫大な労力を要し、加齢と共に不可避なる劣化をとうてい回避しきれるものではなかった。彼女らは気付いたのである。「私たちはなんら報いてもらっていない。こんなにも努力しているのに、これではタダ働きで、従軍慰安婦と変わらない」と。その結果が、上記記事であったのだろう。反逆したのだ。それは当然であって責められるものではない。我々日本人は本当にカスである。いいものには金を惜しみなく払うという当然のしきたりさえ行き渡っていない。その忌まわしき悪習の末路がwinnyニコニコ動画やpixivであった。そこにあるのは自分たちの欲望を満たすためのよだれを撒き散らすだけのゾンビのようなものたちである。いいものは広める。褒める。しかし金は払わない。あまつさえ、先駆者の作品を適当にもじっただけで自らを創造者だと名乗るような連中までのさばる始末だ。そしてそれさえも評価を受けてしまうというどうしようもない現実がある。何も創造する能力を持たない卑しきものどもの消費のうたげ。これでは韓国を障害者の国などと嗤えないではないか。このような蕩尽はいつか反逆される。女子高生の方がちょっと賢かっただけである。それがなってしまったとき、もはや芸術も文化もない。使い古されたカビカビのエロ本に群がることしかなくなるだろう。それは老人の国である。化学反応の終わった世界なのだ。さて、サラリーマンも同じである。もしあなたが自分の給料や待遇に不満があるのなら、態度と行動で示さねばならない。仕事に手を抜かなければならない。会社はあなたの能力に正当な金を払っていないのだから、当然あなたも会社に正当な能力を尽くす必要はない。無能な人間と有能な人間が同じ給料などあってよいはずがない。人よりも貢献した分だけ正比例する報酬を与えなければならない。源泉がないのなら他の労働者の報酬からさっぴいてでもそうしなければならない。そうでなければフェアでない。現状がフェアでない以上、あなたが最大限の力を尽くすメリットも理由も何もない。私はもう同僚の仕事のサポートをやめることにした。そんなことをしても一切私の給料に変化はない。私自身が疲れて、妻にストレスをぶつけ、自らを崩壊させるだけだ。サポートして欲しいなら金を払え。まずはこれである。サラリーマンとしての常識にようやく行き当たった。私のような人間は協調性がないなどといわれるのだろうか。愚かな話だ。私はもうすでに十分すぎるほど協調してやったのだ。なのにあいつらはなんだ?自分たちが無能であることを当然だと思っていやがる。あほらしくなった。本当に。あいつらは電車の中でつかれきった体で重い技術書を開いて眠くなる目を見開いた経験も土日にソースコードをあさることもやったことがないのだろう。家にパソコンさえないなどというものもいるのだからあきれ果てる。努力が圧倒的に足りていないのである。なのに努力した私が助けてやってもお礼のひとつもない。私の給料にも一切プラスはない。こんな不公平は許されない。