「クリーンコード」という本が最近出たが、良書である。本年度ベスト1は「DEBUG HACKS」かと思ったがこれで決まりであろう。ところで、切込隊長が「幸福実現党」に対して「きちがい」であると断定しておられた。まったくその通りであって一遍の反論もない。私も毎朝駅の周辺でやつらが下らない演説をしているのも見るにつけ、心の中で「このくずが」と毒つくのにうんざりである。創価学会でもう十分であろう。これ以上ややこしくしないでくれと思う。今日なんかは朝から雨であるが、あの馬鹿どもはこの雨の中でもカッパでも着て演説するのだろうか。そうであるなら、「このくずが」が「このゴミが」にくらいは格上げしてやるが。世の中はきちがいであふれている。本当にうんざりなのである。人類が誕生してもうずいぶん経つが、いまだに人類は愚かであるというのはなんたることか。しかし、一人の人間の一生はせいぜい80年であり、人類が誕生して何千万年経とうが、結局個体で見れば関係ないのである。また、歳を重ねれば賢くなるのかというとそうでもないのは幸福実現党の連中を見れば明白である。時間の蓄積と共に人類が進化しえるとしたら、書物などによる外部蓄積しか手段はないだろう。では、今やネットがあるではないか。しかし、ネットによって人々が賢くなってきたような感じはしない。幸福実現党ですら、ホームページを持っていることから明白である。ということは、外部蓄積も人類の賢さには貢献しないということだ。そもそも、人類が愚かさから進展できると考えたことが誤りであったのだ。人間は生まれながらにその行く末は決められており、大半の人間は幸福実現党のようになるしかないのだ。幸福実現党が全選挙区に候補を立てるということからもそれは明白である。さて、では、次の選挙では少しでも賢い人間としては、いったいどこに票を投じればよいのだろうか。共産党がかろうじてラインぎりぎりであろうか。私も周りの人間には共産党に投票せよと普段から冗談を言っている。しかし、それもなんだかおかしい気はしている。私が共産党に投じようと思ったのは、新聞赤旗の貢献もさることながら、やはり彼らしか真に労働者の味方はいないと考えているからである。私は派遣などというしょぼい身分なため、はっきりいって将来は真っ暗である。最近妻が妊娠したが、子供の将来も真っ暗である。残念である。お先真っ暗である。プログラマ自宅待機現象という記事が最近注目されていたが、自宅待機どころか、周りは、皆、クビを切られたり、契約更新停止されたり、となっている。客先へ散っていたプロパーどもが大量に仕事を失い、自社へ引き上げて来ており、その自社で働いていた派遣たちのポストが続々とプロパーに置き換えられている。私自身、今のプロジェクトが終わったあとの展望はない。優秀であるかなんて関係ないのだ。多少なりとも優秀な派遣が、無能なプロパーやプロパーの新卒新人に置き換えられてしまう様を見るにつけ、私はプログラマとしての誇りを失いつつある。いったいなんてくだらない仕事だろうと思うようになった。そのうち私もしょぼいプロパー新人と置き換えられるだろうが、私なしでやっていけるならやってみろこの無能どもがと思っている。話がそれたが、共産党は確かにすばらしいのだが、しかしこの世の中、共産党が政権を握ったら、日本は持たないのかもしれない。私には、資本主義よりも社会主義の方が、設計としてはすばらしいと思える。しかし、社会主義がいかにすばらしくとも、実装者がまずかった。レーニンスターリンはアホすだったのだ。だが、今や世界には資本主義しかない。対抗がひとつもないというのは、まずすぎなんじゃないのか。本来なら、社会主義と資本主義は両存して、切磋琢磨みたいなのがいいんではなかろうか。石油価格がまた上昇しているが、もう資本主義の破綻は決定的なはずなのに、ずるずるとバグとりを続けるしかないというのは、どうなのだろうか。社会主義という対抗があれば、バグとりが根本的な実装改善につながるのではなかろうか。さて、幸福実現党であるが、やつらきちがいではあるが、団結し党を結成した、という点は評価できる。この日本で今更そんなことをしようという意気込みは良い。これは新たな可能性であるからだ。共産党は確かにすばらしいが、違和感も強い。もっと良いものがあればいいのにと思う。しかし良いものを作るためには人々が団結しなければならない。団結なんて今更できるのだろうか。吉本隆明は共産のうさんくささについて、労働者を組織されるべきもの、連帯されるべきものとしてとらえているのが間違いといっていた。労働者は単なる労働者であり、まずしさが問題であるのなら、連帯するのではなく、一人でも多く、脱出可能となった者からわれ先に脱出すべきものである、といった感じだった。吉本隆明にいわれるまでもなく、ネット社会である現代では団結は非常に困難である。ところで、ペドフィリアに売られる子供は自らの意思でそうしたわけではなく親から強制されるのが問題というのは、ナンセンスである。金がないのが問題というのが根本であって、その克服なくしては子供に将来なんてないので、意思とかいってられないはずである。清貧を貫けるのも一種の放蕩であり、金持ちでないと出来ない。貧乏人は清貧している間に餓死してしまう。ロシアのハイパーインフレ時代に売春婦が増えたように、人間困ったら最後は売るのは体しかない。子供を買いたいという人がいるなら売るしかない。幼い子供がおもちゃにされるのがかわいそうなんていうのは、先進国国民の傲慢であって、売られる当人やその親からすれば、はた迷惑な話である。商売の邪魔はいけない。ロリを規制すればどうなるのか。地下にもぐるだけの話である。検知されにくくなり、被害がより陰湿になるだけである。どうせ規制するのなら、合法化して、管理すべきなのである。体を売るのは究極のエコであり、人間に残された最後の資本である。その行使を妨害する権利など誰にもない。だいたい、我々だって普段から魂を売って働いているわけである。我々が一日に働き、残業し、終電で帰るのに比べれば、どっちがよりかわいそうなのだろうか。子供だから守らねばならないなど、一切適用されてはならない。私はニーチェのおかげで目が覚めたが、誰かが誰かのためにとか、何かを守るとか言い出したら、そいつのことは嘘つき呼ばわりしてひっぱたかなくてはならない。そいつが言える本当は、そいつ自身の利益のためにまい進しますのみである。ロリは規制すべきというやつらを見ていて思うのは、化粧が濃すぎるということである。けばくてやってられない。よくもまあそこまで嘘を塗り固めたものである。幸福実現党といい勝負である。票がもらえるだけ彼らの方がましとさえいえる。