婚活というのを見ていると、哀れみを覚える。30歳を超えたような、人生において何か苗を起こすなら最後のチャンスのような時期に、貴重な空き時間を使って、異性との交渉に投じるというのは、あまりにも不適切に思う。テレビの中で婚活中の男性が言っていた。「長い人生にパートナーは必要。一人ではさびしい」的な。彼がそもそも忘れているのは、長い人生を過ごすのは自分であるという事実である。彼はオタク的な趣味があり、アニメのDVDなどについて、交渉相手が受け入れてくれるか不安で、秘匿しがちだ、といったことを言っていた。そんなくだらないものを付帯させている時点で、どうしようもない人間であり、パートナーを求めるよりもまずは積極的に生きる意味を問うべきである。婚活に限らず、恋愛交渉というか、性に関するもろもろというのは、あまりにも管理されなさすぎであるというが印象である。思えば小学生から始まって、長い義務教育を受け、大学へ行き、会社へ入り、といった人生のレールのどこの区点においても、異性との関係においては、一切の制度からの補助が受けられないというのも、理不尽である。アマルティア・センが言うには、教育というのは国家にとって決定的に欠くことのできないものであるというが、教育というものに集約させすぎではないか。人は、教育という環境の中で、人生の大半を過ごす。会社や労働というのもその延長というよりは、やはり教育の一部である。人は、教育の中で、恋愛もする。しかし、性のあれやこれやというのは、教育とは相反する概念らしく、社内恋愛は風紀を乱すとか、勉学の妨げになるとかで、制限される傾向にある。教育とは、人を管理するための仕組みである。その社会のフォーマットに適合する人間の量産のみが教育の理念である。我々が列を作るということからして、その原点は教育であろう。アリを見て学んだものもいるかもしれないが。そのフォーマットには、恋愛や結婚というものは含まれないのだろうか。そんなことはないだろう。婚活という混迷の極みに至るのも、その人間がフォーマットに適合していないからであり、それであるならやはり、教育という枠組みの中で、恋愛や結婚もサポートすべきなのである。日本の教育システムには、人材を適切に振り分けるという機能がある。あるレベルの大学を出さえすれば、その後はあるレベルの会社に入れるというやつである。(最近はその前提も崩れつつはあるらしいが)。教育の中で生きてさえいれば、人と企業のマッチングは自動的に行われる。さて、結婚であるが、カップルというのは、結局似たもの同士が結ばれるケースが多いという。学歴や身長や容姿や思想など、似たもの夫婦という言葉はずいぶんとリアリティのあるものなのである。つまり、そこには法則があるわけで、デュランダル議長のディスティニープランではないが、カップリングも、教育と同様に行うべきである。人の運命は決まっている。しかし、いまや、その運命にさえ辿り着けない結婚難民が増加しているのが悲劇である。本当の人生とは、運命の先にあるのである。福沢諭吉学問のすすめで言うように、家庭を持ち子を成すことは、立派なことである。立派ではあるが、人として当たり前のことである。人が目指すべきは、その先である。恋愛や結婚というのは、義務教育と同じで、人生の若き時点において、「卒業」すべき事柄である。30歳を過ぎてもだらだらと婚活しているような人間は、阿呆としかいいようがない。いったい何年留年しているのだ。婚活というのは、いってみれば、定時制高校や放送大学と一緒で、若い頃に落ちこぼれていたような中高年が、心の慰めにちょっと背伸びをして、心と学歴の隙間を埋めるような、惨めな行為である。教育などくだらない。無意味だ。そんなものは知性には欠片も役に立たない。恋愛などくだらない。人間の魅力にはなんら貢献しない。阿呆らしくてやっておられない。しかしシステムであるなら、仕方なしにやるしかない。しかし、さっさと終わらせた方がよい。