美人時計(http://www.bijint.com/jp/)というサイトを見た。一分毎に女性が現時刻を記載したボードを手に持ちポーズを決めている写真が表示され続ける仕組みのようだ。写真の横には女性のプロフィール欄的なものが付記されている。この時計は、時計の歴史始まって以来の革命であると断言できる。私自身、これまでに、数分間も時計を凝視し続けるなどということは一度も経験したことのない体験だった。女性とはクロックジェネレイタである。全ての事象は女性ドリブンである。この美人時計は、その原型を示したという意味において、その偉大な功績は称えられてしかるべきであろう。しかしそれと同時に意識したのは、人間の怠惰さであった。思えば私が数分間も美人時計を凝視し続けられたのは、ただ待ってさえいれば、そこに女性の写真が一分毎に供給されるという事実によるものだった。もしこれが、頭を酷使しなければならない倉庫番のようなミニゲームをクリアしなければ到達できない、などということになれば、私はまたたくまに挫折し憔悴したことだろう(そう、かつての私たちがテックジャイアンの付録CDでそうであったようにだ)。思えば時計とは、怠惰さの象徴でもあるのである。私が立ち止まって惚けているときも、眠っているときも、時計は自律的にカウント機能を継続する。カントによれば、空間と時間とは、この世界そのものに存在するものではない。それは人間が直感によって作り出したのである。時間とは、人間が発明したのである。それは恐らく、必要にかられてのことだったに違いない。人間には怠惰さが必要だったのである。例えば、勉強のスケジューリングがある。一週間の、一日の学習時間割り当てをあらかじめ決定しておき、あとはそれに沿って進行するという仕組みである。これは一見とても能動的な行為であるが、その実受動的なのである。自分はただ時間に沿っているだけでよい。楽なものである。時計とは、全時間のスケジューリングなのである。あなたは朝どうして起きるのか?それは時計にセットしたアラームが鳴るからである。時計は人を奴隷にした。人生を有限にし、意味を有期とした。あまりに残酷な仕打ちである。私が遅刻常習者であるのも、時間への反逆の意味もあるのである。私の人生を縛ることなど、誰にもできないぞという意思の表れなのである。多分。