私は麻雀を深く愛している。愛するとわかることがある。昨日までは完全に別プロセスだった他人が、一夜の契りを交わした瞬間から自らの内部のスレッドとなるようなものだ。愛することで、見えるようになることがある。生きる全ての時間のうち、日に何度か訪れる数nsにも満たないタイムスライスのうち、私は愛するもののことを考える。麻雀とはとてもまっすぐな道である。わずか1時間にも満たない一つの勝負のうちに、失敗を積み重ねた者と成功を積み上げた者との差が結果として歴然と現れる。敗者は過去の過ちを後悔し、あのときああしていればとたらればを悔やむ。勝者はミスさえも肯定し結果を受領する。麻雀で負けることは、僅かな金銭と引き換えに、短期間で、多量の反省という得がたい経験をさせてもらえる。ぼんやりと生を過ごす多くの人にとって、反省とは無縁なるものである。彼らは過去を振り返るにはあまりにも幼いし、後悔を痛みとして引き受けるにはあまりにも空虚だ。そしてまた、後悔するというプロセスはあまりに複雑だ。独力でそれを解きほぐすのは難儀である。しかし麻雀は、牌という言語がコミュニケーションの全てであることにより、究極にシンプルに後悔することができる。麻雀とは人生の縮図なのである。そこでの過ちから得られる反省を自らの生活に活かすことには意味がある。失敗こそ人を成長へと導く。思えば、人類の歩みとは、失敗の連続だったのである。我々は決して巨人の肩の上にいるのではない。かつては巨人だった瓦礫の山の上に立っているのである。我々は瓦礫を目指さねばならぬ。麻雀も、勝負のあとには牌の山を崩す。それは次の勝負の種なのだ。未来への架け橋なのである。私は先日、巨人の瓦礫から新たな知見を得させてもらったばかりである。この記事である。Darwin’s Theory In Action(http://thedailyuplift.com/2009/02/25/darwins-theory-in-action/)。要約すると、不妊治療に来た患者夫婦の不妊の原因は穴を間違えていたことにある、という話である。ああ人類、なんと儚きものよ。おお神よ、我々を導いてはくれないのですか?そう、神は手を差し伸べてはくれない。神はただ罠を敷いただけである。神は穴を三つ用意した。古き時代の人は考えたものであろう。さてどれが正解なのだろうか。人類はどうやって正解へ到達したのだろうか。輝かしい世紀である現代でさえこの体たらくである。恐らく長い時間をかけて、人は探し続けたに違いない。答えを、その人生の意味を。我々がどこへ向かえばよいのか、神ではなく底なき暗闇に向かって問い続けたのである。そして辿り着いた糸を紡ぎ、人類は歴史を奏でたのである。人は、過ちから、偉大なる過去の人々の涙から、学ばなければならない。しかしそれは、過ちを避けることではない。過ちを忘れないためにも、過ちは繰り返さなければならない。神は何もいたずらに罠を敷いたわけではない。それこそが導きだったのである。誤りさえも正しいんだよと、おっしゃっておられるのである。何故なら正解とは、誤りを全て含まなければ確定しないからである。血を流さなければ真実などないのである。血は流れる。その行く手を阻むことなど、誰にできようか。