あなたの周りには優秀な人間がいるだろうか?膨大な経験と博識に裏打ちされ、冷静さと情熱を適切に分離し、仕事を実現させていくキーパーソン。残念ながら、いや、幸運なことに、私の周りにそういう人はいない。しかし、私の働くフロアには雑多なチームが混在しているため、その中には私から判断して優秀そうだと思える人も多少はいる。大抵の場合、一つのチームにそういった優秀な人は一人いるかいないかである。二人いることは極めてめずらしい。一人か、一人もいないかのどちらかである。働きアリ理論(全体の80%はだらけていて、上位20%のみが正しく働いている)との整合性も取れている。そういった環境から入手した情報をもとに、ある一つの仮説を立てることができると考えている。それを私は「エリートがトイレに立てこもってしまった理論」と呼びたい。ご存知のように、大のトイレに入れるのは一人きりである。そして一人が入ると、彼がそのことを終えるまで、次の人はトイレに入ることは叶わない。しかも、ようやくトイレから人が出てきても、次に入った人は、前任者の残り香に悩まされる。天才とは、まさにこういう弊害を持っているわけである。資本主義の搾取構造の結果として、究極的に富は上位者へと偏在する。一度上位者に蓄積されてしまった富は、下位者に対して適切に配分なされることなどない。マルクスがいうように、資本主義は人々に幻想を抱かせてより搾取する仕組みなのである。知性もまた、貨幣と同様の性質を備えている。それは偏在するのである。何者かの意思によってかはわからないが、その性質を意識することは特筆する価値がある。一つのケースとして、IT技術者のあるチームをモデルとして考えてみたい。プログラミングや設計という能力は、残酷なまでに個々人により差がある。できない人が10年かかってようよう到達することを、優秀な人は0.1秒で解決する。これは誇張でもなんでもなく、事実である。そしてそのスキルの差は、可視化が容易である。その結果何が起こるか。やりがいのある仕事は、全てまずは天才に振り向けられるのである。そして天才が、自らが行う価値があるともくされる知的好奇心にあふれた仕事を選び取り、その他の雑多な作業を周りに押し付けるのである。この構造は理不尽に一見思えるが、実はこれしか解がないのである。ある程度以上の難易度の仕事は、天才にしかできない。その仕事を周りの凡人たちに引き受けさせても、彼らを単に疲弊させて工数だけが消費されるのみである。私の派遣先における、私と同年代の正社員を見ていてよく思うのは、なんと無能なのだろうか、である。そんなことも知らないのか、そんなことも出来ないのかとよく思う。一体あなたはこれまでの人生なにをやっておられたのですか?と問いたくなる人ばかりである。そして彼らに決定的に欠損しているのは、知的好奇心とそれを達成する努力である。昼休みになれば、彼らは下らない漫画を読むか机に突っ伏して寝るかしょうもないくだらない同僚とのくだらないおしゃべりのどれかである。ただでさえ一日の大半を労働で奪われているというのに、貴重な休み時間をそんな風に過ごすなんて私には信じられない。穴があったら入れたくなるのが男であるように、人である以上知的好奇心は抑えても抑えてもあふれんばかりのものではないのだろうか。彼らにはそれがない。その理由は、しばらくしてわかった。彼らに非があるのではないのである。彼らは大抵、チームの中の先輩社員と仮想的なペアのような関係で仕事をしている。OJTのようなものを、入社後数年経っても継続させているのである。そしてそのことが、彼らの成長の機会をつぶしている。彼らが困難にぶつかったとき、彼らは自ら苦心して困難を乗り越えるどころか、そういった困難自体が、彼のところには降りてこないのである。そういった関係を続けるうちに、彼らは希望さえ見失ったのである。これは何も正社員の後輩先輩関係のみにいえることではなく、あらゆることに適用される。チーム内に誰か一人優秀な人がいれば、全てのスキルと知識と経験は、その人の集中される。その他の人たちは、絞りカスをすするのみとなる。天才がいることは、そうでない周りの人にとって、最悪の事態である。技術的で知的価値のある困難は、全て天才が瞬時に処理してしまう。あなたはその天才のプロセスを見ることも理解することも出来ないし、あなたに残された作業は、天才の成果を文章としてまとめて体裁を整えることであったり、天才の世間話の相手をして天才のストレスを緩和することくらいである。体の良い家政婦である。多くの技術者は、自らが技術者ではなく家政婦であることを認めなければならない。そしてその悲しい現実は、未来永劫変わることはない。あなたがいて天才が傍にいれば、いついかなるときにおいても同じ構造が再現されてしまう。この構造を解体するには、あなたも天才にならなければならないが、しかし、前述のように、あなたが天才になることは不可能なのである。構造的に無理なのである。ではどうすればよいのか。この悪夢を終わらせる方法があるのだろうか。一つだけ、ある。それは、今いる天才がいなくなることである。つまり、天才の死によって初めて、あなたにも天才になる道が開けるのである。歴史上の天才たちの名をあげてみよう。アインシュタインニーチェフロイト。彼らの身をおいていた分野について考えてみよう。その分野が成長したのは、天才が死んだからである。天才が死に、新たな天才が現れる。その天才の新陳代謝によってのみ、進化が起こるのである。そしてその新陳代謝を引き起こすトリガーは、多くの場合天才の寿命しかない。あなたと同時代を天才が生きていたとしたら、あなたは不幸である。あなたの人生は生涯抑圧され、恋愛や勤労や家族といった他愛のない陳腐で凡庸な瑣末な作業に生きがいを見出すしかない。はっきりいってそのような人生には、微塵の価値もない。カスである。あなたは不満を感じないのだろうか?自らの人生の抑圧を知覚したことがあるだろうか?大半の人は、そのようなことは一度もないに違いない。人間の知覚とは、その知覚できる範囲に限定され、その限界を超えることは決してない。また、構造的に決定された事実は、人間のDNAの奥深くに埋め込まれ、その事実がいかに理不尽であっても、人はその構造にさえ気付けない。ギリシャ時代の奴隷は、生まれながらに奴隷であり、市民たちと同じテーブルで議論を闘わせることなどないのである。男が女を好きになるように、それは自然なことであり、決定されたことであり、それに人が抗う術などない。あなたは生まれながらに奪われているが、あなたは何を奪われたかさえ知らないままその一生を終えるのである。若き技術者たちよ。天才の傍にいてはいけない。彼らの奴隷になってはいけない。スター技術者に憧れて、彼がいるその職場で働きたいと願ってはいけない。そうすることは、あなたの全てを閉塞させる。また、コミュニティについても同じことが言える。あなたが所属するコミュニティは、必要最小限に小さくなければいけない。大きければ大きいほど、天才が含まれるリスクが増える。あなたはごくごく私的な空間に引きこもるべきである。井の中の蛙にならなければいけない。多くの子供を同じ空間に囲い込む現代の教育では、天才は生まれない。その空間においてたった一人きり天才が生まれるかもしれないが、それは多くの犠牲の上にのみ成り立つのである。あなたはオンリーワンなのである。それは字義通りでなければいけない。孤独を愛せ。孤独を貫け。他人と関わってはいけない。工場のベルトコンベアーはどうしてああもスムーズにオート化されているのか。それはそこを流れるものたちが規格品だからである。規格品は大量消費される。そしてあなたも工場で働く規格品になるしかなくなる。あなたは待つのか?天才たちが寿命を全うし死に絶えるのを待つのか?あなたにも寿命があることを忘れてはならない。あなたにも天才になるチャンスがかつてはあったことを、忘れてはならない。あなたは天才にならなければならない。それこそがそれのみが、生きる意味である。かつてヨーロッパでは、富めるもとたちを転覆させる革命が起きた。近い将来、天才と奴隷というこの構造化においても、同じことが起きる予感を持っている。そしてそれも、一つの答えのような気もしている。人類はその科学の飽くなき暴力によって、進歩したが同時に、地球という有限の資源の終わりを演出してしまった。そこから生まれた反省から、エコという概念が生まれた。進化とは暴力でしかない。人間だからこそ、もう一つの答えである調和を選択できる可能性もあるのではないか。考えて欲しい。もし目の前にティッシュ箱が一つしかないなら、あなたはどうするだろうか。何を思うだろうか。人はそれを「愛」と叫ぶのである。