ずいぶん前に、「日本語が滅びるとき」を読んで思ったことは、持たざるものの悲哀だった。普遍語である英語を語れないことによる悲劇は、福澤諭吉たちの時代よりも現代の方が一層増している。かつての日本の叡智たちは、その才能でさえ、その一生を賭してさえ、せいぜい海を渡って偉大な白人と笑顔で握手する様を写真に収めて後生抱えることが到達点であるような、みじめったらしいものだったというのは泣ける話である(あふぃりえいとが好きな誰かさんみたいにね)。前期ウィトゲンシュタインがいうように、世界の写像が言語であるなら、また、言語の成り立ちが先験的であるがゆえに、偶然という理由によって、母国語が普遍語ではないという一点をもってして、日の目を見ることのなかったものたちのなんと儚いことか。そしてより哀れなのは叡智を持たないものたちの方である。Delicious経由で英語の記事を読むようになってから、いかに日本の記事の多くが英語からの翻訳であるかを知った。先日、googleでの検索結果が壊れるという事件があった。日本のネット系メディアの第一報は、googleが悪意を持ったサイトをフィルタするためのデータの提供を受けているStopBadware.comがへまをやらかしたせいとのことだった。実際、壊れた検索結果をたどると表示されるエラーページにはStopBadware.comへのリンクがあった。しかし、StopBadware.comの公式ページを見てみると、へぼをやらかしたのはgoogleだと書いてあった。そもそもフィルタデータなんか提供さえしていないと。googleの公式ページの記述もその指摘を反映していた。それから数時間経っても、日本のネット系メディアの記事はStopBadware.comのへぼさを露悪させ続けていた。日本メディアの記事の中には、夜中に速報的な扱いで記事をリリースしているところもあり、その迅速性は評価されるべきかもしれないが、皮肉なことにゼロデイアタックと化してしまっている。そして次に、新聞系のメディアでもStopBadware.comは雑魚であるとの記事が載った。そうして、翌日後半あたりから、ようやく真実を指摘する記事が出始めた。速報のネット系メディアは仕方ないにしても、新聞系メディアに載るタイミングでは、原文にあたっていれば、偽の情報を流さずに済んだのではないだろうか。また、ネット系メディアには、どのタイミングでも真実を記す機会はったはずである。しかし、メディアが行ったのは、日本の源流から流された情報をただ下流へと流しただけであった。川に生えているコケでさえもうちょっと辛抱しただろうに。記事をしたためる人間のうち誰か一人とて、原文を読もうとしたものはいなかったのだろうか。しかし彼らを責めても仕方がない。何しろ叡智を持たないのだから。技術系の記事においても同様である。海外の記事をただ安易な日本語に置き換えるだけの雑魚ボランティアたちの努力のおかげで、あるレベル以上の大衆性を持った技術記事は大抵数日もすれば日本語での情報にあたれる。その多くは、日本語に置き換える意味のないものである。小学生でも読めるような英文をわざわざ変換キーを押す以上の労力をかけて日本語にするなど、アホの極地である。原文に有意義なコメントがついていても、それを読む人が何人いるだろうか。アクセスを容易にすることが逆に叡智なきものたちを叡智から遠ざけているのは悲劇である。ボランティアをするなら難民キャンプへでも行けと思うのだ。叡智なきものたちは、日本語の技術記事を読んでいる時点で、日本語で思考している時点で、技術者としての未来は閉ざされていることに気付かなければならないのだ。技術者がまず乗り越えるべきはこの悲劇である。そして悲劇を乗り越えたあとでさえ、異なる世界に半身を所属させるという身を引き裂かれるような痛みに耐え続けなければならない。だがなにも、持たざるものの悲哀とは言語だけにとどまらない。「着ていく服がない」という格言がある。「服を買う顔がない」とも言われる。世間ではコミュニケーション能力だと騒がれている。理系よりも文系がのさばっている。優秀な脳を持ち、遺伝子を誰よりも残すべき人間が、人間社会から廃絶されてしまう。例えばミラーマンである。誰よりもこの国を愛し、誠実と忠実をもって正義を尽くす知性の化身である。しかし、たった一度の過ち、それも、ただ鏡で地球の裏側を望みたかったという純粋な探究心を、過ちではなく人類の斬進だったその歩みを、変態といって世間は葬ってしまった。生まれ持った知性を、毎日鏡の前で身なりを整えることに費やし、表層だけのコミュニケーションのみを積み重ね、ただただ浪費した不能なるものを、女たちはあがめる。コミュニケーションなど、単なるログ出力文に過ぎない。コミュニケーションを重ねたプログラムなど、インアウトをログるだけの無意味な実態でしかない。確かにログは出力されるが、中身が伴っていないのである。それとは逆に、知性を自覚し、磨き上げたものたちは、きもいうざいと虐げられる。遺伝子を残すべきものたちの遺伝子は儚い。それは世界の断絶である。日本語と英語の、イケメンと知性の、男と女の。人は、跳躍しなければならない。たとえその先にあるものが「ほんとう」でなくとも。技術者は、自らの技術を残すために英語の世界へ、知性は、遺伝子を残すためにイケメンの世界へ、断絶を乗り越えなければならない。話がそれてしまったが、今日私は帰宅しようと席を立ったとき、ズボンの前のチャックが全開していることに気付いた。パンツを履いていたおかげで最悪の事態はまぬがれたが、どうやら朝履いたときからそうだったようだ。最近私は哲学に強い興味を持っていたので気付いたことがある。はじめに人があった。しかし、はじめ人に与えられたのはパンツだったのだろうか?それともズボンだったのだろうか。一般にはパンツと思われるだろうが、それは、ズボンだったのではないだろうか。人ははじめてズボンを履き、今日の私のようにあるときチャックが開いていることに気付き、そうして、パンツが人に与えられたのではないだろうか。一つ嘘をつくと百の嘘をつかねばならないという。ズボンとは嘘ではないだろうか?パンツとは嘘を塗り重ねたものではないだろうか?言葉とは、嘘ではないだろうか?そうだとしても、我々は跳躍しなければならない。そうすることによりはじめて、わたしはわたしでありあなたはあなたなのであろう。私は思うのである。適当なことを書き散らかすとき、人は誰でも哲学者であると。