抜くべきだと思う

確かにヒゲ剃りを使えば均一かつ効率的に作業が行えるが、果たしてそのとき作業を行う本人は何を考えているかといえば、多分別のことを考えている。ヒゲを剃る作業があまりに単調かつシンプルなため、持て余したリソースは思考の海に確保されてしまう。ヒゲ剃りを持った手は確かにヒゲを剃っているが、当人はそれをまるで意識していない。自分のしていることも認識していないようでは真摯に生きているとはいえないし、そもそも剃るのでは本質を知ることはできない。鏡で見る限り1ミリもないようなヒゲであっても、抜いてみればその根の深さには驚かされるばかりだ。根は深いということを一体どれだけの人が理解しているだろうか?たまたま道端にあったマクドナルドで出来合いのスマイルやハンバーガーを注文することが食事なのだと適当なところで自分で勝手に線を引きそれ以上は思考しない通りすがりの客にとって、金を払ってトレイを受け取ることが全てで、キッチンでせわしなく動く従業員が何をしているかなどどうでもよいことだと思っている。確かにそれぞれの人間が作業や役割を分担するのは社会の運営に欠かせないが、しかしそれはあくまで作業
の分担であって、そこで行われることの理解が不要だということにはならない。チームで作業していても、自分たちの担当だけを理解していたのでは、欠陥品が作り上げられるだけである。開発者はユーザの利便性や効率ばかり考え、あらゆる複雑性を隠蔽しようとし、それが開発者の本分だと意識し、また、ユーザもそれに甘えてしまっている。しかし、複雑性をユーザから見えなくすることは、言い換えるならユーザから複雑性を奪っていることになる。それは領主が領民から税として利己的に搾取することとなんら変わりない。人は全てを理解する必要はないが、全てを理解しようとしなければならない。それのみが人が人たる唯一の資格なのである。