sizeofは先進的すぎる

Hacker News経由。sizeofの不思議な挙動が話題になっていた。
Humans should think of sizeof() as a function, says Linus Torvalds (lkml.org)

でもsizeofを関数として扱えというのも微妙で、ちゃんとoperatorとして扱うのが正解じゃないかな。
sizeof operator

サンプル
int main(){
int a = 0;
printf("%zu\n", sizeof (a) + 1);
printf("%zu\n", sizeof (a + 999) + 1);
}
この二つは両方とも出力は5になる。これでもsizeofを関数として扱えというのは無理がある。

cの世界にあってこのsizeofは飛び抜けたセンスを光らせていて、引数に型と式を受けることができる。
カッコをつけると型として扱われるからカッコの中で+999なんてやっても無視される。(ビルド警告さえ出ないのはひどい)
考えようによってはsizeofはc唯一のジェネリック関数であって超かっこいいのかもしれない。
名前も珍しく普通に読める。returnとかmainなどと共に数少ない良質な名前だ。sizeだけじゃなくてofがついているのも近未来的。

一番ひどいのはリーナスで

I don't want you writing kernel code.

とキツイニュアンスで相手の人格を全否定に入っている。こんなことを言われた人の気持ちも大切であろう。

ところでsizeofの戻りはsize_tだけど、それをprintfするときに%zを使うべきなのだそうだ。
how-to-print-size-t-variable-portably

‘z’ was introduced in ISO C99. ‘Z’ is a GNU extension predating this addition and should not be used in new code.

こういう不毛なことを避けるためにもリーナスはさっさとLinuxをRustで書けよと誰か言ってやって欲しい

自分の書いた過去の記事を読むとなんとも恥ずかしいものだけど、恥ずかしさを我慢してみれば気づくことがある。それは記事に何の普遍性も広汎性も無くて凡庸チンパンジーということだ。でもその記事がもはや誰のために書かれたものでもなくて、自分のためだけに書かれたものだと見れるようになる。文章を書くことが普遍性を獲得することは難い。しかし日記というものは普遍性をハナッから拒絶しているからこそ自重性があるかもしれない。僕は過去の僕にお礼を言いたい。

病院の待合で老人たちの末席に連なったおかげで驚くほど読書がはかどった。「行人」を読了した。漱石はむしろ「こころ」に「行人」とつけるべきだったし、「こころ」の方がよっぽど「行人」だろうと思う。
「行人」の白眉はこの一文であろう。
「噫々(ああああ)女も気狂(きちがい)にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」
妻の魂の純潔を疑う一郎の溜息である。
女を妻とし、嫁とし、孕ませ、生ませ、それでもまだ女の心はわからない。宮台がいうにナンパの経験を重ねていくと明らかになることは確率問題だということである。女というものは、一定の確率のもとで、ナンパに陥落するのである。妻だろうと母だろうと女子高生だろうと。
この確率はパラメータを変えることでいくらでも高められる。アルコールを摂取させる、ドラッグを用いる、金を積む、身なりを保つなど、いくらでも成功することができる。
ドラッグをつかえば女はさぞきちがいになるだろう。そうなってみれば本体だというのであれば、それはビッチとしか形容できないものを指すしかなくなる。限りなく透明に近いブルーでも黒人兵とドラッグを打ってセックスしまくるビッチ達の描写が凄まじい。まるでコンセントじゃないか。人間という規格さえ守ってればあとは何でも繋がって流れるわけだ。
相手との性行為を欲求する性質というだけがこころではない。動画サイトで登壇する人妻たちは貧困がそうさせるのである。こころは貧困と結びつきやすい。
こころとはマネジメントの結果である。外部制約と内部欲求の間で選択された己がこころなのだ。
現代人には一郎のような疑問が不問である。女の本体など明らかなり。それでもやはりこころを求めてしまうから不思議である。
「行人」の終盤には「神」とか「所有」という概念が出てくる。一郎は妻を殴ったとも話す。殴ったのに抵抗しないからこころが掴めないのだと嘆く。蟹を見てそれは君の所有だという。こころが無いから所有だと。所有するとは神になることだととれる。一郎は妻の問題をとっかかりにして神の問題を見ていたようだ。これには同意である。僕も女性探究者の端くれである。でもそれは特殊問題ではなく神という一般問題につながっていることに気づいてきた。太宰がイエスのことばかり想っていると言いつつ女性と寝てばかりいたのは太宰の良心である。
男は女を研究することで神に近づけるが女は一体何を研究すればよいのであろうか。

娘が絵をくれた。家族の絵だった。私の絵だった。その絵を壁に立てかけておいた。
今ふとその絵を見た。私はその絵の中の中心だった。一番大きな表面積を与えられている。その意味を考えずにおれない。

なぜ性を売るのがダメなのか

http://togetter.com/li/567130
性を売るのはおおいに結構だが売り方に問題がある。普通商品というのは規格化されているものだ。どこの店に行っても入手可能だ。しかし性を売っている女性というのは不特定多数を相手にしていない。特定の狭い範囲の人間にだけ性を売っている。これが問題である。上記リンクでババアに性売買の正当性を訴えている19歳女性を私が買いたいと思っても買うことが出来ない。地理的経済的家庭的問題もあるのが何よりも彼女らは性を売っているといいつつ商品として店に並んでいないではないか。
店に並ぶとはどういうことか?それは無修正ネット動画に出演するということである。そうすれば世界中どこからもアクセス可能な商品として立派に成立しうる。無修正動画としてtorrentでもって世界拡散されてこそ商品であろう。
世界を相手に商売してこその商品である。勘違いしないでほしい。

庄司薫が面白い

http://www.youtube.com/watch?v=lXs96toe-B8
アメーバの社員達が踊っている映像を見てとても大切なことを教えられた気がする。彼らと庄司薫と取り巻きのライフスタイルは酷似しているのではあるまいか。

頑張っている人間は不潔だ

「何事かに捉われて生きれば、時の経つのは早い。捉われずに生きる決意をするのに、早すぎることはない。詩仙堂の時はしずかに流れた。時がしずかに流れるということ……世の中と折り合って生きる代りに、自分と折り合って生きるということじゃ」
三題噺 詩仙堂志より

夢中になることはもっと戒められるべきではないか。熱意とは単なる快楽消費でしかないのではあるまいか。必死に何かを頑張っている人を見ると吐き気がするのもうなずける。他人のセックスを見て感じる感情と似たようなものだ。自分との連関の薄さとそれにも関わらず自分へと伸びてくる人間の型枠の狭さ。本当に不潔で醜いものだ。