病院の待合で老人たちの末席に連なったおかげで驚くほど読書がはかどった。「行人」を読了した。漱石はむしろ「こころ」に「行人」とつけるべきだったし、「こころ」の方がよっぽど「行人」だろうと思う。
「行人」の白眉はこの一文であろう。
「噫々(ああああ)女も気狂(きちがい)にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」
妻の魂の純潔を疑う一郎の溜息である。
女を妻とし、嫁とし、孕ませ、生ませ、それでもまだ女の心はわからない。宮台がいうにナンパの経験を重ねていくと明らかになることは確率問題だということである。女というものは、一定の確率のもとで、ナンパに陥落するのである。妻だろうと母だろうと女子高生だろうと。
この確率はパラメータを変えることでいくらでも高められる。アルコールを摂取させる、ドラッグを用いる、金を積む、身なりを保つなど、いくらでも成功することができる。
ドラッグをつかえば女はさぞきちがいになるだろう。そうなってみれば本体だというのであれば、それはビッチとしか形容できないものを指すしかなくなる。限りなく透明に近いブルーでも黒人兵とドラッグを打ってセックスしまくるビッチ達の描写が凄まじい。まるでコンセントじゃないか。人間という規格さえ守ってればあとは何でも繋がって流れるわけだ。
相手との性行為を欲求する性質というだけがこころではない。動画サイトで登壇する人妻たちは貧困がそうさせるのである。こころは貧困と結びつきやすい。
こころとはマネジメントの結果である。外部制約と内部欲求の間で選択された己がこころなのだ。
現代人には一郎のような疑問が不問である。女の本体など明らかなり。それでもやはりこころを求めてしまうから不思議である。
「行人」の終盤には「神」とか「所有」という概念が出てくる。一郎は妻を殴ったとも話す。殴ったのに抵抗しないからこころが掴めないのだと嘆く。蟹を見てそれは君の所有だという。こころが無いから所有だと。所有するとは神になることだととれる。一郎は妻の問題をとっかかりにして神の問題を見ていたようだ。これには同意である。僕も女性探究者の端くれである。でもそれは特殊問題ではなく神という一般問題につながっていることに気づいてきた。太宰がイエスのことばかり想っていると言いつつ女性と寝てばかりいたのは太宰の良心である。
男は女を研究することで神に近づけるが女は一体何を研究すればよいのであろうか。