写真を見る人

冷蔵庫の裏の影に隠れてしまいそうな壁に貼られた古い写真。色褪せた二次元。そこに写る幼い我が姿。懐かしさを感じる。
その幼い子どもにはまだ周囲を理解できてはいなかっただろう。カメラだって知らないし、自分に向けられたレンズのそれが、二十数年後の自分の水晶体に変わるなんて想像もしなかっただろう。
だから僕にはわからないんだ。君が笑っている理由がわからないんだよ。君が見ていたのはレンズじゃない。そのカメラを君に向かって構えてた君の父親、その傍らの母親、そのもっと後ろにあるまだ色褪せていない風景。景色の一片一辺にさえ温度があったのかも。
カメラは君を写した。そして同時に、君は君の絵を写したはずなんだ。この写真には君しか写っていないけど、その写真のこちら側にはあのときのすべてが溶け込んでいる気がする。そしてあのときのすべてはきっと、今のこの僕に混じっている。そういう意味で、この古い写真と僕は昔の僕を通してつながっている。
そのつながりが僕に力をくれるだろうか?ふと立ち止まったこの空間に意味を与えることが出来るだろうか?
もし写真が色褪せなかったら、僕と僕はつながることは出来なかったのではないか。なぜなら写真の中の僕は成長しないからだ。年月を重ねて写真が色褪せることでしか成長しないからだ。最近では写真なんてみんなデジタルデータになった。ビットは色褪せることはない。0と1しかない。存在するか存在しないか。
今の子どもたちが二十年後に見る幼い自分の姿は、色褪せることがない。その恐怖に彼らは耐えられるだろうか。そんなもの呪いでしかないのではないか。

この動画には母親と幼い女の子が写っている。
http://www.nicovideo.jp/watch/1238396927
母親のカラオケはとてもへたくそで、コメントも罵倒の嵐だ。
母親はこの動画を誰に見せるためにここに残したのか?それはここに写っているまだ幼いこの女の子に向かってなのだ。それはつながりを見せるための仕掛けなのだ。ジュースのコップをもったままじっとこちら側を見つめているその瞳。その瞳はこれからずっと先の未来で、きっとその瞳の持ち主と交差する。彼女はきっと幸せになる。その瞬間すべてを取り戻すのだ。そのとき笑うのは、写真の中の彼女だろうか。写真のこちら側の彼女だろうか。