開拓者という思想

これはやばい。本当にやばい。絶対に読んで欲しい。「適応しえぬ者たち」という章から引用。このときホッファーは季節労働者キャンプにいた。

私は彼の手を見て驚いた。右手の半分が縦に切断されており、硬い三本の義手の指は鶏の足のようなのだ。私は右手を目の前に見せられるまで障害に気づかなかったことが恥ずかしかった。そして、揺らいでいた自分の観察力に対する自信を取り戻そうと、それ以後まわりの者たちの手を注意深く観察し始めた。結果は驚くべきものだった。二人に一人は、何らかの形で傷を負っているように見える。腕が一本しかない男が一人いるし、幾人かはびっこを引いている。木の義足をつけた若い男も一人いる。大部分の男たちが、まるで機械の鋭い歯車から逃げ出し、そこに体の一部を残してきたかのようだった。自分の印象が大げさすぎるように思え、食事の前に男たちが庭に並んだとき、びっこの人間を数え始めた。するとすぐに、ここにいることが何を意味するのかがわかり、数え終えるまでもなく結論が出た――キャンプにいるわれわれは、人間のゴミの集まりなのだ、と。
私は、同胞の放浪者たちの人間体としての価値を見極めようとし、生まれて初めて人の顔を意識的に見るようになった。良い顔立ちをした者も、若者の中には多かった。しかし、大多数は傷つき衰弱していた。皺だらけの顔やむくんだ顔、そして皮のはがれたプラムのように生傷を負った顔もあった。紫色に膨れ上がった鼻もあったし、折れた鼻も、毛穴が大きくなって窪んだ鼻もあった。歯が欠けている者も大勢いた。私は自信を取り戻しつつあった。キャンプにいる人間たちの決定的な事実がわかりかけてきたのだ。明らかに無傷で五体満足なのは、二百人中七十人だけだった。

中略

開拓者としての放浪者?――ばかげた考えのように思えた。しかし、白い砂漠を横切って歩いている間中、この着想について思いをめぐらせていた。開拓者とは何者だったのか。家を捨て荒野に向かった者たちとは誰だったのか。人間はめったに居心地のよい場所を離れることはないし、進んで困難を求めることもない。財をなした者は腰を落ち着ける。居場所を変えることは、痛みを伴う困難な行動だ。それでは、誰が未開の荒野へ向かったのか。明らかに財をなしていなかった者、つまり破産者や貧民。有能ではあるが、あまりにも衝動的で日常の仕事に耐え切れなかった者。飲んだくれ、ギャンブラー、女たらしなどの欲望の奴隷。逃亡者や元囚人など世間から見放された者。そして、このほかに冒険を求める小数の若者や中年が含まれる。おそらく現在、季節労働者や浮浪者に落ちぶれた者と同じタイプの人間が、一昔前は開拓者の大部分を占めていたのだろう。

中略

人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する。「神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きものを選ばれたり」という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。弱者に固有の自己嫌悪は、通常の生存競争よりもはるかに強いエネルギーを放出する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェD・H・ロレンスのような人たちは、重要な点を見過ごしている。
弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ。