ゲームが必要じゃなくなったんだ

ゲームプログラマになる方法
とても考えさせられるエッセイである。
現代ゲームプログラマに3D技術は必要だろうか?そんなことよりもゲームを作ることが大事じゃん、という話。


そんなことよりも、ゲームプログラマは必要だろうか?と思う。
アメーバやらmixiやらで流行っているゲームを見ると、もう行き着くところまで来てしまっている感じがする。
ミニゲームをしてマネーを稼いでアバターやお庭を着飾って他のプレイヤーとチャットする。これはネットゲームの本質だ。結局人は人とつながることが一番の刺激という悲しいオチ。
もちろん3D技術なんて必要ない。簡単なパズルゲームとショッピングカートの仕組みさえ作れればいい。そこでは人が主役なのだ。もうゲームプログラマがデザインしてやる必要はない。むしろ支配者なんて邪魔になる。ゲームプログラマはゲームを提供するのではない。単に場所を提供するだけになる。駐車場の管理者みたいな退屈な仕事。

かつてゲームはそこでしか生きられないものたちの居場所だった。例えばサウンド。ゲームがなければあれほどの曲が日の目を浴びただろうか。BGMとして、戦闘音楽として活躍する以外に、曲単体で世に出ることは出来なかった。しかし今はニコニコ動画がある。曲単体で衝撃を持ちえるということが証明された。サウンドにとってわざわざゲームというパッケージは必要なくなった。

シナリオはどうだろうか。もうみんな世界を救う話には飽きちゃった。物語は必要とされなくなった。データベース消費(笑い)。

上記エッセイにもあるように、3D技術のメジャーな活躍舞台としてもゲームは意義があったらしい。そうだろうか。ただの当たり判定と光源をいじるだけの世界じゃないか。本当に面白いものはゲームでも生かしきれなかったはずだ。3Dデスクトップを見ればわかる。抽象表現として3Dは貧弱だ。意義があるとしたら医療技術くらいか。

そして一部の動的なアルゴリズムシステム開発では出番の少ないアルゴリズムの習得の場として意義があった。これからはそういう複雑なゲーム自体求められていないので独りよがりで終わる。

何よりも、もうユーザはゲームなんて求めていないのだ。もう囲いの中でつまらないテニスをするのにはうんざりなんだ。ゲームという究極に受動的なシステムに見切りをつけた。
今ユーザは何をしているのか。twitterでつぶやいている。ブログでテキストを打ち込んでいる。ニコニコ動画にコメントしている。rubyを使ってクイックハックしている。ボーカロイドで編曲している。フォトショップ谷亮子を加工している。世界に向かって発信しようとあがいている。

ユーザは自らの足で立ち上がり始めた。我々日本人にとってゲームが提供してくれた豊穣な足場には感謝しても足りない。だがもうそこから巣立つときだ。
ゲームなんて、まだプログラミングが何も出来なかった時代の、まだ産声を上げたばかりの若いプログラマたちの遊びに過ぎない。ちょっと遊びが過ぎただけさ。
もうプログラミングはゲームのコードを書かなくていいんだ。今はもっといろんなことが出来るのだから。

今もゲームプログラマを目指す若者が量産されている。野球と似ている。野球選手になりたいと目を輝かせていた少年たちのほとんどはどんよりとにごった目をした非生産的な大人になる。未来ある若者よ。どうか一人でも思いとどまって欲しい。その道に進んではならない。
もうゲームは死んだんだよ。