隣のカゴ

お好み焼きの材料をカゴに入れてスーパーのレジに並ぶ。前にいた客がカゴいっぱいなせいでなかなか終わらない。自然にカゴの中に興味が行く。材料を見て、おおよその今日の夕飯が想像できる。スーパーというのは品目は多いがそう突飛なものは置いていない。富豪だろうと貧民だろうと、カゴの中身は似たり寄ったりになる。前の客のカゴの中を見ていると、ああこれはtwitterだなと気付く。安心するのだ。同じなんだと。1000人をフォローしてからがtwitterの真の魅力という記事があった。多様でランダムな価値観が洪水のように流れ込んで来て攪拌される自己を楽しむのが正嫡だと。そうだろうか。1000人をフォローしたところで、似たり寄ったりの1000人でないという保証がどこにあるのか。どんな異人でも、たった140文字に落とし込む内容というのは、つぶやきというのは、そこらへんのおっさんと変わらない。時候のあいさつ。せわしない感嘆。他者とのゆるく不明瞭なコミュニケート。有名どころのつぶやきを見て、とても残念だった。何もないのだ。そこにいるのは私たちと同じ人間なのだということ以外何も得られるものがない。twitterは日本人にとても合っている。下方向への強烈な同調圧力。どれだけ優秀な人間も、つぶやくレベルで見れば私たち凡人と同じなのだと幸福感で満たされる。つぶやきはスーパーのカゴだ。似たり寄ったりの今日の晩御飯。そこには人間しかいない。だからカスなのだ。