水谷先生のエッセーがおもしろい

「夜回り先生のエッセー 本当の愛とはただ与えぬくもの」
以下の記述がある。

子どもたち、私が今回、「愛」について書いたことには、理由があります。実は、9月に私の親友が亡くなりました。仏門の僧侶でした。立派な名僧でした。彼は、大学時代、熱烈な恋愛をしました。しかし、相手の女性には、すでに好きな人がいました。彼の恋愛は、実りませんでした。彼は、失意の中、僧籍に入りました。そして、一生を独身で過ごしました。彼が、京都の寺に入る前日、私は、彼と飲みました。その時の彼のことば、忘れることができません。「水谷、俺(おれ)の愛は実らなかった。でも、それでいい。それでも、俺は、彼女を愛してる。愛し続ける」。彼は、ずっと、愛した彼女と彼女の夫の、良き友でした。彼らの娘と息子の名前は、彼がつけました。お葬式では、彼女も夫も子どもたちも、泣き続けていました。私は彼にそっと言いました。「ありがとう。お前は、俺に本当の愛を教えてくれた」。子どもたち、本当の「愛」を、求めよう。そして、それを、生きよう。

一生独身だったからといって、誰かを愛さなかったとは限らない。むしろ、より深い愛を抱いていた可能性が高いのかも。そういえば、水野晴朗も生涯独身だった。シベ超を愛していたのだろうか。
水谷先生は、愛とは軽いものではないとおっしゃっている。普段男がいう愛は、体目当ての愛であって、軽いと。
昨日役所に子供の医療関係の手続きに行って、帰りに寿司屋に寄って、おやつとして、大好きな玉子にぎりを四つ買った。イカとエンガワも一つずつ買った。家に帰ってから寿司を食べた。いつもなら、全て一人で食べてしまう。妻に一応いるかと聞くが、妻はいつも君が食べれなかった分をもらうというので、大抵、ほとんど自分で食べる。だが昨日はきれいに半分残してあげた。玉子二つと、イカとエンガワを一貫ずつ。そうかこれが愛なのだなと思った。

水谷先生は、かなり優秀な社会企業家である。子供たちを救うということと経済的な利益を得るということを両立している。人を救うということはなかなか金にはつながらない。金というものが出てくるだけで、人を救うにはもっと純粋なものが必要だと、精神論をふりかざす人が多い。しかし、本気で人を救っていきたいと思っている人がいても、金がなければその人自身が生きていけない。その家族を養えない。一定の収入が確保されるならいくらでも人を救ってやるという気概を持った人は相当数いるはずなのに残念だ。モノを作って売るような仕事はどんどん減っているが、減った部分を埋めるような新しい仕事は創出されない。全てのビジネスが結局のところモノしか扱っていないのが問題だ。子供たちを救うとかそういう類の行為に対してお金を払う回路が必要なのだ。モノはあふれすぎて、人々にいらないモノまで売りつける必要が生じている。人が本当に欲しているものはいつまで経っても埋められることがない。ニコニコ動画リストカットの真似事をしたり、ネット動画中継の仕組みを使って飛び降り自殺を生放送したり、そういう人を救ってくれる仕事は世の中にはまだない。かろうじて水谷先生のような僅かな人たちが実践しているのみである。

本来なら人間の内部で深く優しく長く培われていくべきものが、外部化されていることも問題の一つになっている。世の中への不満や不安を抱えて、悩んで死のうかと考えたり全てを拒絶したり、リストカットしたりオーバードーズしたり、本来そういう営みは、ある程度は人の成長の一場面であり、それぞれの人が各々において、各々の関係の中で、少しずつ緩やかに扱ってきたものだ。ゆりかごの赤ちゃんをゆさぶるように、そっとそっと触れるべきものだ。南条あやがかつてやったような、最近のメルヘンな若者がやっているような、自殺さえもネットでの演出にしてしまう行為は、ただのわがままでしかない。賞賛されるべきものでも、罵倒されるものでもない。本来内部で解決すべきことを外部化したがために、結果は悲劇にしならなかった。本来ならお腹の中にいなくちゃいけないのに外に出してしまったから、いびつな解決の仕方をされてしまう。早産ではなく流産なのだ。

赤ちゃんを見ていると、本当にかわいい。自然にニヤニヤとしてしまう。この感情は萌えのような気がする。オタクたちが騒いでいるアニメに対する萌えは、この感情の代償行為かもしれないなと思った。水谷先生がいうように、偽者に肩入れすることは本当に悲しいことだ。身の回りのものを本物に変えていくのが人生ともいえる。人口ミルクは普及したが、本物の母乳には遥か及ばないのだ。アニメに投入するのは本当に虚しい行為だ。一体いつまで人口ミルクをせがむつもりなのだろうか。