本番と練習

声優を目指して舞台にも出ている友人が、公演での本番について、同じことを繰り返すのは結構飽きてくると言っていた。公演までには何週間も練習して、やっと本番になるが、その本番は一度きりではない。公演期間中に、何度も何度も練習の成果である本番を繰り返す。こういう、一度きりではあるけれど一度きりではない本番というのは興味深い。
もちろんプロとして、公演初日だろうと、最終日だろうと、同じクオリティを達成する必要がある。練習で反復したのと同じように、本番も反復しなければならない。しかも、練習ではだんだんと演技のレベルが上達してくるが、本番ではそれはあってはならない。本番になる時点で演技は完成してあるべきで、公演初日よりも最終日のクオリティが高くては、もはやそれはプロではない。客にとってはどの公演日であろうとも、本当に一度きりの鑑賞となるわけで、自分が見たものよりも次の日に別の人が見たものの方がレベルが高いなどとあっては、納得できるものではない。
だから、同じことを繰り返すのは結構飽きてくると言った友人のそれは、ある意味プロらしい発言でもあった。飽きてくるくらい同じレベルを毎日の公演で達しているというわけだから。
さて、舞台俳優にとっての本番とは、連続するものだが、一般の職業の人にとってはそうではない。本番とは一度きりであることが多いし、そもそも本番という概念のない職業もある。本番がないということは、練習もないわけで、つまりそれは研鑽の必要がないという悲しい職業であるか、もしくは、絶えず研鑽し続ける職業かもしれない。
例えば吉野家やコンビニの仕事は、研鑽の必要がない悲しい職業である。プログラマならば、絶えず研鑽し続ける職業のはずだ。どちらにも本番という概念も練習という概念もない。
本番があるというのはモチベーションにとって有効で、一つの公演を終えれば、また一つ俳優として成長できたとなる。メリハリのある生活に自然となるわけで、健康的だ。
本番がないということはモチベーションとしてはつらい。区切りを入れてくれるシステムが外部に存在しないために、どこで力を抜いてよいやらわからなくなり、大半のものは常に力を抜いてしまう。
吉野家なら力を抜こうと大して問題にならないが、プログラマなら致命的となる。この不況でいくらでも首切りは横行し、大手の正社員という肩書きでもない限り、相当のスキルがないとあっという間に切られてしまう。スキルがあっても切られるが。
職業としては本番と練習という区別があるが、では通常の人生においてはどうかというと、本番と練習の区別はない。常に努力し続ける人もいれば、常に堕落し続ける人もいるし、何もしない人もいる。
堕落もしくは何もしない人は、もう自分には本番なんてないと考えている。そもそも本番なんてないのに、あるものと勝手に決めて勝手にそんなものはないと断定している。赤ちゃんでさえ必死に呼吸をして手足をばたつかせているというのに。そういう人は仮想的に舞台俳優になることをお勧めする。本番を用意してやればいいのだ。
最近は観客を集める手段が多様になった。ブログをやってもいいし、2chでスレッドを立ててもいいし、ニコニコ動画で歌ってみても踊ってみても描いてみてもいい。観客がいれば、人は本番を始めることが出来る。そしてその本番は、本物の舞台俳優と違って、本番中にいくらでも成長できる。しかも自分しかいないのだから主役をはれる。仮想空間だから究極のサンドボックスであり、何度失敗してもセーフティだ。例えば私がニートから脱却できたのも、このブログで俳優として演じたからである。
電車の中でいつも思うことがある。座席に座っているものもつり革にぶら下がっているものも、皆何もしていない。専門書を広げているわけでもなければ考え事をしているふうでもない。ただうつむいて、じっと、何かに耐えているように見える。会社の昼休みでも多くは机にふせっているか、同僚とのくだらないおしゃべりに興じている。社会の大多数は、あまりにも人生を冒涜している。人間をバカにしている。超人を目指していない。なぜもっと学ばないのだろうか。駅前で弾き語りをする人はほとんどいない。ニコニコ動画でもほとんどは傍観者である。なぜもっと歌わないのだろうか。踊らないのか。描かないのか。森博嗣の「自由をつくる 自在に生きる」を読むまでもなく、人はすでに自由なのである。ネットの向こうの顔も知らない誰かに声を届けることがこの時代なら可能なのである。目をつむっている場合ではないのだ。人はもっと書かなければならないし歌って踊って描かなければならない。もっと多くの人が思想家や芸術家や専門家を目指さなければならない。目指すことが出来る時代になったのである。もっともっと楽しいのだ。心の底から染み出るような笑いが得られるのだ。お笑い芸人の漫才を見て笑うのではない。自分を笑うことが出来るのだ。