スライムが必要だ

昔スーパーのレジでバイトをしていたことがあったが、客から味噌の場所を聞かれても答えられなかった。
しかし今は、客として一度味噌を探して買えば、次からはもう場所を覚えている。
一つの味噌をめぐって、売り手と買い手の二者の立場があり、各々の立場で味噌に対する知識の量も側面も違ってくる。
客は自分が好きな味噌の値段の基準価格を知っていて、他の店よりいくら安いかを把握している。何よりもその味噌の味を知っている。
店員は様々な味噌の種類とその店での価格をしっている。この味噌はいつもより安売りになっているなとわかる。どの味噌が売れ筋かもわかる。しかし味噌の味は知らない。
そして味噌に関わるもう一つの立場は作り手である。味噌の原材料から構成まで細部に渡り知悉している。しかしその味噌がやりとりされる場面に立ち会えることはない。
最後の立場は運び手である。味噌を右から左へ運ぶだけの仕事だ。味噌について何も知らないがどういうルートを通って運ばれるかだけを知っている。
これらの立場の中で味噌により利益を得られる立場と、そうでない立場がある。
売り手は味噌を売ることで金になる。買い手は味噌により料理の幅が広がる。作り手は金と名誉を得る。しかし運び手だけは何も得られない。
ネットワーク中立性とまったく同じ構図がここにもある。

負荷という側面から見ると、最もコスト高なのは作り手である。味噌を作るスキル以外にも、どのような客がいて、どのような売り手がいるのか知っていなければならない。また、どう運ばれるかにも注意を払う必要がある。
求められる知識は全ての抱合より大きくなる。最も重要なのは客への理解である。この最終出口が広げられなければ利益とはならない。

作家にも同じことが言える。優れた書き手は優れた読み手でもある。宮部みゆきなどがそうだ。優秀な作家となりたいなら多読にこしたことはない。
逆に言うなら多読している読み手は優れた書き手になる可能性がある。味噌とは違う。味噌の買い手が作り手になるという回路は存在しない。それは味噌を作り出すことに一般性がないからだ。字を書くのとは違う。味噌を作ることは素人には無理だ。この敷居の高さゆえに永遠に味噌の買い手が作り手に転じることはない。

字という汎用性の高い媒介があることで、小説の書き手と読み手はとても類似した性質を備えることになる。平行した二本の線のようなもので、はしごひとつかければ渡ることが出来る。
これまではそうではなかった。いくら字という優れた媒介があっても、それを伝播する運び手や売り手が限られていた。しかし、ネットの登場や賞の多設によりダイレクトに書き手と読み手が同じ数直線に重なることが出来るようになった。

何よりもネットの力が大きく、これまでは読み手ですらなかったものたちを流入させた。彼らには読みこなすスキルがないがゆえに、読みやすくそこそこのレベルの作品であれば、喝采を持って迎えられることになった。
また話題に上る作品のレベルが低いがために、多くの新たな読み手は自らも書き手に転ずることが出来ると思うようになった。実際それは可能だった。

もちろんこれ自体は健全な文化ではないが、そうした素人の新たな書き手も漸次的にレベルアップしていき、多設された賞を目指すこととなるのは時間の問題だった。賞を目指す以上は、その賞に類ずる作品を購入して読む必要が生じる。もちろん作家が読者としての属性を備えたとして、作家の数が少なければ効果はない。しかし爆発的に増大した新たな書き手の場合は事情が異なる。この物量は出版界や既存の作家にとって正のフィードバックとなる。目玉の数を増やせばバグは少なくなるのと同じで、一つの文化への参加者が増加するのはその文化の質の向上へつながる。究極的には、読み手と書き手の集合が完全に重なることとなる。これこそが文化の完成であろう。

本が売れなくなった。CDが売れなくなった。ゲームが売れなくなった。テレビを見なくなった。そうして荒廃していった業界が安易に手を出したのが素人参加型のエンターテイメントだった。アイドル発掘や読者投票。しかしそれらの全てはつまるところ消費者を消費者としてしか扱っておらず、生産者とはしなかった。それはもちろん消費者から生産者へと至る回路が途絶しているからであり、敷居が高いのであるが、それは字も本質は同様である。字の場合はその敷居を低くする環境が整ってきたのだ。もちろん山田悠介先生が大きく貢献したことはいうまでもない。

つまり客を増やすためには客を減らさなければならない。客と作り手は並存できる。客から作り手になっても客としての属性は消えない。
必要なのはレベルの低い作品とレベルの低い読み手とレベルの低い書き手である。考えても見てほしい。もし最初の街の周りにスライムがいなければ勇者は魔王を倒す旅には出られなかったのだ。