手回しシュレッダー

我が住所のある横浜市は市民の家庭ゴミを漁って個人情報を収集しているようなので、うかうか個人を特定されるような宛名書きのあるような紙類を捨てることが出来ない。
我が家には手回し式のシュレッダーがあり、個人名や社名、住所が記載された紙は全てこれにかける。
紙をセットしてキュルキュルと廻して、紙がシュレッダーの口から吸い込まれて、きざまれて、透明で中が見えるようになっている底の部分に蓄積されるさまを見るのが楽しい。
いっぱいになったきざまれた紙を見ていると、ずいぶんいろいろな種類の紙があるものだと気付く。メインは白色の欠片、茶封筒をきざんだものは茶色の欠片に、メモ用紙をきざんだものはピンクや薄緑。死に絶えてなお、強烈な個性を放っている。
不思議なことに、普段、紙に書かれた字は気にしても、紙の色なんて気にしたことがない。しかしこうしてバラバラに砕かれたあとの紙には強烈な個性を感じる。
これはフォーカスが移ったのだといえる。
例えば存命中はフォーカスがあたらず、何の功績も残せなかった人物が、後世、フォーカスが当たった途端に、歴史上の偉人となることがある。ベートーベンとかピカソとか。コンピュータでいえばバベッジとかブールになる。彼らの残した作品や論文が、後の人に注目されることにより、その真の意味が浮き上がるのだ。
だがこれら偉人のケースはシュレッダーで砕かれた紙とはケースが違うようだ。偉人の作品や論文は何も形を変えたわけではない。初めからそこにあったものがその真の価値を見出されたのだ。初めからフォーカスを得られる条件は揃っていたのだ。フォーカスが移りされすればよかったのだ。
シュレッダーで砕かれた紙の場合、形を変えることで可視になったのだといえる。それまでは不可視でフォーカスを受け取ることが不可能だったものが、可視状態になることでフォーカスを得られるようになったのだ。
この場合、ポイントはシュレッダーということになる。シュレッダーという変換機構がなければ、紙達の鮮やかな個性が浮かぶこともなかった。

現代のネットはまさにシュレッダーといえる。あらゆる情報がごちゃ混ぜに入力され、粉々になって蓄積されている。だがその粉塵のような情報は、何の個性も漂わせていない。紙とは違って可視状態になっていない。従ってフォーカスを得られていない。
シュレッダーを通すことがむしろマイナスとなっている。Wikipediaがすごいのはその粉々になった情報を糸と針で結び合わせたことにある。つまりシュレッダーを通すだけではまだダメで、その先の粉塵をまとめ上げる機構がもう一つ必要となる。
ネットは粉塵だらけで空気がよどんでいる。マスクをしていないと呼吸さえ出来ないほどに息苦しい。インプットとアウトプットの話が昔あった。インプットばかりしていてもスキルアップはしないから、適度に学んだことをアウトプットすることが大事というやつだ。今はむしろ逆で、みなアウトプットばかりしている。インプットをやらなくなってしまった。めいめいに思いついたことを吐き出すだけで、摂取は忌避している。どうしてこうなってしまったかというと、情報伝達経路の可視化のせいだ。twitterのフォロワーという仕組みがそうだ。自分が言ったことを誰が受け止めてくれるのかが一目瞭然である。受注先が決まっているならなるたけ大量生産してしまおうというのは理にかなっている。そうやって粉塵ばかりが蓄積されていく。まるでゴミ捨て場のように。