創造の源泉としての電車

舞台作家のブログを読んでいると、電車の中でハプニングがあってそれをネタに出来ないかと思った的なことが書いてあった。
ネタを探している人にとって電車は格好の餌場なのかもしれない。いろいろな年代や職業の人が渾然一体と詰め込まれる環境というのはここくらいしかない。しかも一定時間ごとに中身が換気される。
混ざるというのは予測不可能だが同時にそれは可能性の再帰性でもある。アメリカがいろいろと新しい文化を発信できるのは人種のるつぼであることが影響している。
もっといえば、都会人の生産性の高さにはあの満員の通勤電車が好影響を与えている面もあるのかなと思った。
同僚の会話を聞いてみても、電車の中でバグの解決策を思いついたという場面に幾度となく遭遇した。不思議なことに、家で思いついたというのは聞いたことがない。何故か電車の中で、なのだ。他にも、「電車の中でずっと考えていたんだけど」といったことも聞いた。どうして考える場所が電車の中なのか。
確かに私自身電車の中でぎゅうぎゅうになっているときに設計の妙案が浮かんだりすることがあった。満員電車では何もすることが出来ないが、それは逆に考えることしか出来ないということだ。
電車はまた出会いの場でもある。男も女も関係なく詰め込まれるため、いろいろな女性を目にすることになる。もし私が定職と妻をもっていなければストーカーという第二の人生もありえた。電車で一目ぼれしてきっかけに、という出会いはかなりあるのではないか。
電車はまた流行や最新機器を知る場でもある。コードが絡まないイヤホンや頭に装着するタイプの音楽プレイヤー、新しいDSのゲームソフト、新しい漫画。そういったものを他人がやっているところを見ることでそういうものがあることを知ることが出来た。
いずれにしろ都会人にとって電車は人生の一部となる。一日の通勤と帰宅の往復の電車で3時間以上消費するような人も多い。ただつり革にぶら下がる以外のことを考える必要がある。
電車はランダマイズの種としては結構優秀なんじゃないか。