音楽は他より劣る

筑紫哲也の「若き友人たちへ」は大変よかった。若い人は絶対読んでおいた方がよい。学ぶことが如何に大事か、楽しいかを再確認できた。
言葉の意味はすごく大事だし、その言葉の成り立ちやつながりや発展を知っておくことがあらゆるものの理解に通じるということが理解できた。

この本の中ではいろいろな文化がその必須性と共に取り上げられている。演劇や写真や映画にアニメ。しかし、音楽については井上陽水の曲の歌詞くらいしか出なかった気がする。なんか扱いが小さい。
それは筑紫哲也が音楽を蔑視していたからではないか。もっといえば、音楽には文化としての価値が薄いのではないか。さらにいえば音は不要なんじゃないか。

ニコニコ動画には作業用BGMと称していろいろな曲の詰め合わせがアップロードされている。作業用という名の通り、仕事中のBGMなどに活用している人も多いのだろう。仕事中に音楽を聴いていないとはかどらないという人もいるようだ。
だが音楽を聴いているということは音を処理するために頭の中で頻繁にコンテキストスイッチが起きているということなので、確実に生産性は落ちる。音楽を聴いていると仕事が進むなどと思い込んでいる人は、むしろ元々の生産性の低さがコンテキストスイッチで隠蔽されているに過ぎない。もっとひどいと音楽を聴きながらでもできるような単純作業を進んで片付けていたりする。仕事の優先順位を無視してまで。

通勤電車の中でipodを聞いているサラリーマンがいる。シャカシャカと周りに雑音を垂れ流すばかりか、自らも貴重な時間を浪費していることに気付いていない。そういう人は同時に本を読んで都会人を気取っていたりするが、読んだ内容のほとんどは右から左へ抜けているだろう。音楽を聴きながらでも処理できるような内容の軽い本を好んで読んでいる自分に気付いているだろうか。

家電ショップで流れる意味不明な多言語アナウンスやお買い得情報の音声がある。もしくはテンポのあやふやなショップオリジナルメロディがある。これらは購買者の思考を鈍磨させて判断力を奪い財布の紐をゆるめるためのシンプルで効果的なしかけである。

選挙カーから拡声器で同じ文句を呪詛のように繰り返す政治家や支援者がいる。これらは投票者の思考力を遮断し、ただただ候補者の名前のみを投票者の記憶内にとどめさせるための戦略である。

ベッドの上で女が喘ぎ声をあげるのは、男のピストン運動を加速させ安定させ一定させてより性交渉における種付けの確率を上昇させるためのテクニックである。

これらの例からわかるのは、音楽には確かに他の作業と並列させることで効率を上げる効果が認められるが、それは単純作業に対してのみということだ。作業全体のうち重要な比率を占める創造性や思考を求められる作業には究極的に向かない。
人間は並列処理にとことん向いていない。例えば大量にバグが出たときに、それぞれのバグを同時並行的に処理していっても、ちっとも解決しないことになる。それよりも、一つずつ取り出し、その一つに集中し、完了してから次に取り掛かった方がトータルの処理効率は高い。優秀な人ほど確実に一つずつバグをつぶしていくものだ。

我々に与えられた一日の可処分時間は決まっている。音楽を聴くことを日常に取り込んでいる人は考え直した方がよい。もっとシンプルに思い返してみるといい。音楽を聴いているとき、ふと気がつくとぼおっとしていないだろうか。曲のサビになって盛り上がるとつい手が止まってしまっていないか。一回一回は僅かな時間でもトータルすると音楽処理のためのコンテキストスイッチで奪われる時間というのは莫大だ。

では音楽自体に学習効果があればどうか。曲それぞれに、歌い手のそれぞれに、歴史があり横のつながりがあり、辿ることで自らの世界を広げられるような文化としての深みがあればどうか。
残念ながらそれがないのだ。最近の若者が好んで聴くような萌え系の電波ソングを見てみても、歌詞には何の重みもないし、背景も何にもないし、ただただかわいいリズムを連鎖させるだけだ。機械にでも作れるような曲ばかりだ。
J-popは愛だ恋だ別れだと十年一日のようにリピートしている。J-popを聴くような連中に受け入れられる言葉というのは決まっているためだ。
では歌詞のない曲ならどうか。アンビエントやトランスならどうか。しかしこれらは歌詞が無い上に音だから音符は目に見えないために、ますます何の意味もない。

音楽にはランダム性という特徴がある。音符の配置や楽器の選択やそれらの組み合わせやメロディの長さ速さそれらは全てランダムだ。麻雀やトランプと一緒で、そこには法則がない。一般にランダム性を備えたものは文化の担い手とは成り得ない。単なる娯楽である。しかも音楽は占有されるデバイスは耳のみであるために、あらゆるものと組み合わせることが出来る。あらゆるものと組み合わされ、あらゆる文化的作業を阻害する。ウイルスのようなものである。そろそろ人類はこのウイルスと向き合わなければならないのだ。