オープンソース的な空気の気持ち悪さの正体

筑紫哲也の最終著作「若き友人たちへ」を読んでいるが、興味深い記述があった。都市デザインについてのくだりで、東京を象徴する3都市は、渋谷と原宿と秋葉原だと。
以下引用。

その特徴は何かというと、渋谷は見せたがる人たちが集まっている。ガングロとかいろんなことをやっている。それでガラス張りの建物が多い。みんなに見せたいし見えるようになっている。
対照的に秋葉原はみんな密室。窓がない。カフェへ行った人は分かる。要するに、アキバ系は非常に内向的で内にこもる人たちが多くて、外と遮断して見えにくくするというのが特徴だと。
その中間が原宿・表参道で、外との関係を簡単にいえばすりガラス。

私はオタクではないが、アキバ寄りの内向的な人間である。その私が客観的に見て、渋谷と秋葉原のどちらがより文化として密度が高いかといえば、どう見積もっても秋葉原であろう。
初めてCD-ROMでLinuxを配ったのもアキバだし、メイド喫茶やビンタ喫茶や足で踏まれ喫茶にスカトロ撮影会と、あらゆる娯楽を生み出してきた。そしてその娯楽は、たとえブームが終わったとて人々の心に深く刻まれてきた。
ひるがえって渋谷はどうだろうか。何か我々に残しただろうか。ファッションという名の亡霊をちまちまと追いかけ、風の方向が変わるがごとく衣装を着せ替え、結果、何も残らなかった。

それはどうしてなのか。ガラス張りだからであろう。みんなに見せたいということは、大して作りこまずに見せるという結果を招きやすい。とりあえず派手にアピールしておけばあとは行列効果で人寄せには困らない。
みんなから見られるということは、みんなのレベルに合わせなければいけないということでもある。奇抜なものが評価されるようでいて、その奇抜さはその実みんなの想定内だったりするのだ。
全てを見せるというのは制限でもある。外部からの評価を常に気にし続けるというのはクリエイターからすると単なる妨害である。


少し前から、ネットでプログラムやコードの発表会が流行った。「〜にインスパイアされて〜を作ってみました。」的なものが頻発した。とにかくコードを書いてみて発表することが善という空気が場を満たしていた。
そういうもののほとんどは、まるで渋谷のようなコードだった。

ネットで発表するのは、思ったよりもコストが高い。最低限の体裁を整えるだけでも数時間は軽く消費される。みんないかにもさっと片手間に作ってみました的にすまして発表しているが、背中は汗びっしょりなのだ。
そんなくだらないことに時間使うくらいならスカトロ動画でも見ておいた方がよっぽど生産的なのだ。

ネットで発表すれば間違いも指摘してもらえるし、みんなからこうしたらいいよという意見ももらえるし、本人にとって素晴らしい成長の機会になるというのもずいぶん寒い話で、しょうもないコードを発表して釣れる意見なんてたかがしれているという大前提を忘れている。大物を釣るためには自分も大物でなければならない。そのために費やした時間を読書にあてれば専門書の一冊でも読めたはずだ。どちらが獲得知識総量として重いか。

渋谷はくだらない街だ。もちろん必要だが、自らそこへ赴こうなどとは思わない。なんでもかんでもオープンにすればよいというものでもないのだ。ネットで顔をさらしている大物プログラマを見てみるといい。金子氏を見てみろ、やねうらお氏を見てみろ、どこに渋谷系がいるというのだ。反対に渋谷系プログラマの顔を思い浮かべてみるといい。あえて名前はあげない。