生きるとは死なないという選択の積み重ねである。公園でゲートボールに興じる老人たちを見るとそのことを忘れそうになる。五十年後の日本を先取りしたかのようなその風景はシエラレオネに比べれば長生きの方がましだと果たしていえるか疑問である。カラマーゾフの兄弟を読んでいるといたるところにキリスト教的記述がある。どのような経路を選択しようと祈っておれば週末的に救われるという楽観的な考えは現実味がないが共通基盤の不在なき時代は幸せであったことだろう。今パターン、XP、Wikiとかいう本を読んでいるが、宗教はまさにデザインパターンの一種である。そういう意味ではあながち信者を馬鹿にできない。盲目であろうともパターンに従う方がましである。日本人の意思決定の遅さは宗教を否定する土壌に原因があるのだろう。宗教に変わる日本人のパターン言語があるとすれば2chであろうか。いささか脆弱な基盤である。今日は寝坊して遅刻である。こうして遅刻してみるに宮本武蔵が遅刻して勝ったのはどうしてか少し理解できる。遅刻とは人とは違う時間を生きるということである。それはあらゆる混雑や魂の貧困から己を遠ざける
ことに繋がる。遅刻をする人間の方が優秀なのはこの理由による。すでに電車の中は高齢化社会日本を公園並に実現している。彼らが宗教を必要としているように見えないのは私が無神論者であることとは何の関係もない。