モノを持たない生活スタイルというものが一時期流行ったようだ。だがそれは、身肉の詰まっていない人間が体重計に乗ってみればわかるように、そういう生活を送るその人自身が、価値的に浮ついたものとしてしか成り得ないだろう。モノを持たない人間は、脳みそも軽いに違いない。もちろん物理的な脳みその重さと知能には関連がないから、ここでいう意味は実質的な知性の軽さである。部屋に趣味らしきものが宿っていないということは、その部屋の主が大して価値を持たない証であろう。だがだとしたら、ゴミ屋敷のようなケースはどうなるのだろうか。彼らの多くは、元は廃品回収業者のようなものをやっていて、廃業したがゴミを処分する手立てを持たないというのだろうか。中には、蓄積したゴミを自身の一部に感じているような者もいるようだが、まれであろう。モノを持ちすぎた者は、幸福とはいえないのだろうか。しかしゴミ屋敷という呼称が指すように、彼らが持て余しているモノはモノではなくゴミである。ゴミを捨てるという基本的な人間的所作を行えないことから、彼らはむしろ精神障害者に近いだろう。彼らの所有物も、かつてはモノであったのだろうが、朽ちてゴミとなったのである。モノを持たない生活は、モノがゴミになるリスクを減らしているという点では評価ができる。しかし彼らは、単なる潔癖主義者でしかない。ゴミ屋敷の住人が不潔すぎるにしても、その対角になったところで、精神障害という類似性は否定できない。どちらもモノを持っていないことによって、その生の価値を貶めている。さて、ではモノを持つことによるメリットとは何だろうか。それは外部記憶装置としての価値である。ここでいう外部記憶装置とは、技術書を多く所有していれば資料を探す手間が省ける、といった類の意味ではない。そうではなく、あなた自身の記憶や技術的蓄積や能力的研鑽を、モノは分散して記憶してくれるという意味だ。技術書を例にすれば、購入して部屋に並べているだけでは、確かに資料にはなるかもしれないが、そのままでは単なるゴミである。あなたが買ったのはただのゴミである。しかし、その書を手に取り、肉襞をかいくぐるようにページを押し開けば、それはゴミからモノへの昇格する。一度モノを持てば、あなた自身がその知識を見失ったとしても、その知識自体にはマークがついているから、ガベージコレクタに回収されることもない。ここで大事なのは、その書を捨てないことだ。捨ててしまえばそれはゴミとなってしまう。そうではなく、無意識下に把握できるように部屋に置いておくのだ。そうすることでガベージコレクタから守られるのだ。こうしてみてみると、記憶とは複雑な仕組みであることがわかるだろう。記憶とは、あなたがする記憶ももちろんそうだが、それで全てが構成されるわけではない。モノの側も、その困難な作業の一部を負担してくれているのだ。「見る」という行為にしても、見る者と見られるモノとがあって、初めて成り立つ事象である。もし見られるモノが存在しないなら、世界はなんと暗闇であろうか。男と女がいるように、プラスとマイナスがあるように、全ては二者の協調によって成り立つのである。モノはあなたの記憶を記憶してくれる。したがって、モノを所有し適切に管理するのはあなたの義務である。モノを持たない人間には注意すべきである。それは、人としての責任を放棄したならず者である。その怠惰さからは腐臭さえ漂っている。