海外で感動(と若干の笑い)を呼んでいるドコモCM「森の木琴」(動画)

「こんな苦境のときもやってくれるね日本!」
と、ドコモのシャープ製スマートフォンのCM「森の木琴」が海外で大変な反響ですね。
福岡県嘉麻市古処山の樹間に間伐材で44mの木琴を組み上げて玉を転がし、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ(Jesu, Joy of Man's Desiring)」を奏でる3分のCMなのですが、既に各所で取り上げてる通り、NYタイムズCBS、エンガジェット、Neatorama、NYMagなど、紹介した媒体には大変な数のRTと「いいね!」がついてて、コメント欄も

・なんという禅!
・オンリー・イン・ジャパン!
・究極のクリエイティビティ
・他の大企業もこういうCMもっと作るべき

と絶賛の嵐。良いものに国境なしですねー。

日本の誇りだといっている。私はしらけてしまう。3.11以後の日本において芸術が持つ意味は違ってしまう。これからの日本は上記のようなものを誇るべき社会とは違う。
福島原発震災が日本人につきつけたものは何だろうか?私たちは生き方を変えざるをえない。放射能と共存する社会を生きなければならない。それによってもたらされる未知の恐怖と向き合わなければならない。
原発震災がつきつけたもの。それはクリエイティビティの無力さである。2次元アニメ、3DCG技術、環境音楽、小説、ゲーム。手先が器用な日本人の得意とする分野。これら全てが無駄であったのだ。無意味であったのだ。
東京が無限に消費する欲望の電力にブレーキがかけられている。電気を節約しようと。これまでの過剰な電化に覆われた生活を見直そうと。
同じ意味において、私たちはクリエイティビティを放棄する必要がある。2次元アニメ、3DCG技術、環境音楽、小説、ゲーム。これらの分野に関わること、創造すること消費することを一切停止する必要がある。
内橋克人氏が震災討論番組で「私たちは失ってはならないものをこの震災で失ってしまった。その前提に立たなければならない。」とおっしゃっておられました。
そうだろうか?本当に私たちは失ったのだろうか?むしろ失われていないことが問題なのではないか?私たちは失う必要があるのではないか?
新しい時代が始まり、新しい前提に立つことが求められている。「主よ、人の望みの喜びよ」。望みや喜びがない世界が始まる。そもそもそれらは不要だったのだと気付かされる。
人生に音楽などなかった。BGMは流れていない。