「老いの超え方」読書中

吉本隆明著。冒頭で、老人のことを「超人間」だと言っている。

要するに老人とは何かというと、人間じゃない、「超人間」だと理解するんです。動物と比べると人間は反省する。動物は反射的に動く。人間はそうではない。
確かに感覚器官や運動器官は鈍くなります。でも、その鈍くなったことを別な意味で言うと、何かしようと思ったということと実際にするということとの分離が大きくなってきているという特性なんですよ。だから、老人というのは「超人間」と言ったほうがいいのです。

思考と行動が分離していき、それが蓄積されていくのだから、老人にとって何よりも重要なのは思考と行動を一対一で対応させないことだろう。一つのことを思ってから、それが実行されるまで頭がその一つのことに占められていれば、それは超人間ではなくたんなるノロマということになる。思考の部分が独立できるなら、それは巨大なバッファとみなしうるので、超人間的である方が最終的なアウトプットは独創的になりやすい。思考と行動が一対一でないなら、最初に思い描いたことは行動とならないまま消えていくことも多くなるはずだ。超人間的であるということは、多くのことを考えたけれどもほとんどのことをやらなかったという結果に終わる。思考がプリペアで行動がコミットだとすると、超人間的な人間を外部から他者として見たとき、その重要性は低く貶められる。コミット数が多い方が目立つのは仕方がない。しかしプリペアとは自己自身へのコミットであるので、超人間的な人間を内部から自己として見たとき、その利益は膨大になる。知識的技術的コミットというのは、自己よりも他者へ配慮した形態である。実肉体的な運動を伴うため、時間もかかる割には見返りが少ない。若者にとってコミットを行うかどうかは選択的な問題だが、老人にとっては構造的にコミットが減ることを回避できない。これは要するに思考をするには老人の方が適しているということだ。老人ホームで半寝たきりになって口を開けたまま世界が停止したかのような痴呆老人が、その内部でどれだけ豊穣な思考を展開しているかなど誰にもわからないし意味をもたない。それは痴呆老人自身にとっての快楽の世界なのだ。ところで、思考といっても、純粋に脳内で完結する思考と、実際に行動を伴わなければ決して完結することのできない思考の二つがあると思う。吉本隆明が言っているのは前者のように思うが、後者のタイプの思考が脳内を多く占めるなら、それは老人の方が若者より思考に不向きということになる。行動なくば完結しないのであれば、永遠に未消化の連鎖が紡がれるだけだ。このようなタイプの思考の代表例が性欲であろう。老人にとってかくも深刻な問題は他者と肉体的につながりを持ち辛いということだ。つまり老人にとっての最終的なテーマは、いかにして、肉体的つながりを他者と持たないで、性欲を処理するかという一点に集約される。この問題は若者の引きこもりにも適用されていて、若者が取っている手段がそのままではないにしても大部分適用できる。この点に関してのみ、老人は若者から学ぶべきことがあるように思う。