図書館活用方法

貯蓄が底を尽きもはや仕事もなく、給料もなく、小遣いなど何年先までもらえるやらわからない。つまり私は今後数年に渡ってまともに本を買うことができない。本が買えないということはすなはち知識が増えないということで、もはや知識人としては死亡であって未来は閉ざされたといえる。せめてもの抵抗として図書館を有効利用したいのだが、田舎の図書館の蔵書量などゴミクズ以下で私の個人蔵書といい勝負であって話にならない。古いしぼろいし汚いしセンスがない。そこで、毎月に本が図書館に入荷するごとにリクエストを出し続けるしかない。一個人のリクエストがどの程度尊重されるか不透明であっても、ひたすらに希望書籍を祈り続けるしかない。新書クラスの本なら自前で買えても、技術書や哲学書は不可能である。なんてかわいそうな僕。最近の図書館はそれなりにネットワークが整備されていて、同じ県内であれば、図書館間での本のやり取りもずいぶん自由にできる。つまり、県内の全図書館の蔵書が自己書庫として利用可能ではある。しかし考えてもみてくれたまえ。高知県である。全国学力検査で沖縄県とビリを争うような最低県の一角である。その文明度や推して知るべし。民度とは図書館にこそ反映されるのである。私は地元図書館の書架に並ぶ品目を眺めながら悲しみを押しとどめることが出来なかった。それはもはや掘り返されることなど想定していないような古い地層のうず高い瓦礫の山だった。閑散としたフロア、イスで寝こける老い先短い老人、高給をむさぼるあくび顔の司書たち。それは町全体が知識や歴史を否定していることの証明でしかなかった。ただ人生が過ぎるのを、ただ季節がうつろうのを待ち続ける呼吸音。もう聞こえてこない音に何度耳をすましたか。知識だけが人を高めるのだ。性欲など車輪に過ぎない。全ては知識へ通じ、あらゆる手段をこうじて知識をより高めることのみが人生のはずなのだ。私は今回の原発震災でずいぶん心を病んだ。被災者たちに対して何もしてやれない己の無力さ。誰一人救うことの出来ない己の無力さ。抗議することも出来ないまま自分の人生を踏みにじられる己の無力さ。恐妻の言いなりとなりあやつり人形のように成り果てる己の無力さ。無力さ。無力さ。つまり私は無能だったのだ。私がこれまで生きてきた27年間の全ては未だ成されていないのだ。東京で踏みとどまり放射能に耐える勇気などなかった。被災地で放射能に耐えボランティアをする勇気などなかった。海外へ逃亡する勇気などなかった。何一つなかった。この押しつぶされそうな罪悪感をどう処理すればよいのだろうか。同じ人間が、同じ日本人が、朽ち果てた街の泥土にくずおれて、水の底へ沈んだ家族を、木片の隣を沖へ流されていった友を。泣き果てるその姿は祈るように見えた。誰もが思ったはずだ。テレビの向こうで、幼い娘と妻を失った父親は、生涯の伴侶を失った老夫は、断ち切られた人間の絆は、あれは私たちなのだ。全てを失ったのは私たちなのだ。何度も思った。どう償えばいい?この嘆きを誰が償えるのか。私たちがこの未曾有の原発震災から教訓を得、それをもって社会に変革を迫るのは課せられた義務であろう。二度と同じ過ちはあってはならない。一人でも多くの日本人を未来へつなげるためにできることはたくさんある。だがそれは社会的な回答でしかない。原発事故は人災である。そして津波の被害も人災である。全ては克服できるはずである。それを可能とする社会システムを築くべきなのだ。それだけがこれから各々の成人が社会で執り行うベースクロックになるのだ。だがそれは社会的な回答でしかない。そうではなくて、個人として、私として、一人の人間として、いったいどう償えばいいのだろうか。それは学ぶことである。学ぶことだけである。知識や思想を増大させることしかないのである。それだけが人の償いなのだ。私は学び続ける。どんなに能力が至らないとしても、人生が有限だとしても、決してやめない。学ぶことだけが人生を切り拓くのだ。僕は日本人を愛しています。僕はこの国を愛しています。僕は日本という国土で生きる日本人であるこの僕を心の底から愛しています。