思い出との決別

生まれつき目の見えない人よりも、後天的に事故や病気で失明した人の方が、まだましであるとか、いや不幸であるとかいう話がある。僕は後天的に失明した人の方がより不幸だと思う。彼らは確かに海の青さを知っている。青が何か知っている。地球の色。信号の色。ドラえもんの色。なじみのサロンのおばちゃんのセーターの色。たとえ今は何も見えなくても、思い出の中のそれはいつでも取り出せてて見ることができる。感じられる。反対に先天的な失明者は青が何かわかることは一生ない。一生知りえない。どれだけ言葉を尽くしても理解されることはない。世の中の大部分は、知らない方が幸せなのだ。よくいるのは、「もし自分が末期がんで余命幾ばくもないとわかったなら、そのことを隠さずに教えてくれ。俺はその最後のひと時を最大限に有効活用したい。まだ遣り残したことが少しだけある。それをやり遂げたい。全力で。」なんていう人がいるけど、果たしてこの人健康時に吐いていたこの台詞を余命宣告されたあとも維持できるのかしら。自分の砂時計にもう砂が残っていないと知らされた瞬間に、人は生きるのをやめると思う。「いやそうじゃない。真摯に余命をまっとうされる方もいるよ。きちんと家族と最後の時間を過ごし、たんたんとそれまでの趣味を続け、当たり前の日常の当たり前の幸せをかみ締めて、ちょっと苦しそうだけどそれでも笑顔で死んでいく人はいるよ」って意見には与しない。そんな人がいたとしたら、その人はよほどの強情張りなのだ。自分に嘘をついて生きている。そんな余命など送りたくはない。僕は死の最後の瞬間まで、自分には永遠の命があるのだと妄想していたい。今日は明日になって明日は来年になるって無条件に信仰したい。あれ、違う話になってしまった。戻す。思い出は今とつながっている。たとえ過去にどれだけ幸福だったろうと、今が不幸ならそれらの思い出は割れたガラスの破片へと変貌する。ことあるごとにそれに触れてしまい血を流すはめになる。それなら思い出なんてない方がいい。僕は小・中・高のアルバムの類を全て焼却した。クラス写真も卒業文集も通知表も教科書類も表彰状も全てだ。でも紙は消せても頭の中のしこりはなくなりはしなかった。毎夜夢の中であの頃のクラスメイトが出てくる。僕は自分の本当の過去とは違い、とても彼らと打ち解けている。そうして夢は暖かいまま終わる。そして目が覚めれば僕は、ガラスまみれの布団の上に横たわっているんだ。でも血をたくさん流したからこそ、その部分の皮膚は分厚くなっている。もうちょっとやそっとのガラスなら大丈夫になってくる。痛いけど出血まではいかない。そうやってどんどん皮膚を分厚くしていけば、それはもう人とは呼べないんだろうな。誰が愛してくれる?そんな化け物を誰が抱きしめてくれる?もしあなたがそんな状態で、俺の前に現れても、俺は何もしてやれない。気持ち悪いから。俺は、気持ち悪いから。