蝉の中

みんみんみんみん
窓はまったく障壁とならずに
みんみんみんみん
光を遮蔽するカーテンさえも突き抜けて
みんみんみんみん
朝から晩まで鳴き止むことのない
みんみんみんみん
まるで時計の音のようです
人を事へと急がせる
歩みを止めれば針の鞭が飛ぶ
みんみんみんみん
焦りと汗が混じります
みんみんみんみん
蝉のお腹の中にいるような気がします
ただじっとしていることしかできないのです
しかし蝉は人を身ごもるほどの寿命はありません。
みんみんみんみん
蝉の音が頭の感覚を麻痺させます
痛みと汗が混じります
みんみんみんみん
溶けあって何もなかったことになります
みんみんみんみん

丸い部屋の真ん中で
私は蝉をにぎりつぶすのです
みんみんみ

アスファルト

吉本隆明の初期の詩を読んでいると、古いかなづかいや耳慣れない言葉があったりして、一行を読むうちにも何度も立ち止まることになる。
たとえば「こころが空まはつてうごかなかった」とあって、最初は空回ると読めずにこれはなんと読むべきかと思った。読めたあとも、空回るということがぐっと実体を持って感じられた。頭の中で空回るという文字や情景をしばしもてあそぶ。
現代小説を読んでいても、立ち止まるということは少ない。ライトノベルもミステリーも私小説であっても、すらすらと読める。速読という技術が通用する世界。情報技術の世界も同じで、一時期高速道路と言われたように、氾濫する最新鋭の環境と情報とテクニックに一ヶ月もあれば追いつくことができる。この世界には、何の障壁もないのだ。

知識や知恵とは傷だと思っている。頭に刻み付けられたカサブタになることのないいつまでも消えないえぐり傷。人はそれを習得するためにずいぶん自分自身を傷つける。いや、傷つけていたのだ。今の人たちは手首を切ることはあっても脳みそに傷をつけたりはしない。つるっつるの脳髄が浮かぶ。

本当はあったのだ。たくさんの石ころやたくさんの寄り道や、きれいな夕日や虫や鳥のさえずりが。つまずいたり立ち止まったり時に寝転がったりしながら歩いてきたのだ。今あるのは舗装されたアスファルト。太陽を拒むように地表温度を上昇させる。もう歩くことも寝ることも出来ない。車がないといけない。車から見えるのは、前の車と後ろの車だけ。あとはアスファルト

本当に良い道というのは、たくさんつまずける道のことだ。遠くにかすむ先を行く誰かの背中じゃなくて、目の前の石ころを観察できる環境だ。今の人にだって出来ることはある。アスファルトをはがしてやればいい。アスファルトを剥ぎ取って、そこに頭をぶつけよう。血まみれになろう。人は笑うだろう。気持ち悪がるだろう。でもあなたには関係ないんだ。あなたはもう石ころを見つけたんだ。

ふかわりょうめ

大好きなピチカートファイブの大都会交響曲ふかわりょうにアレンジされてひどいことになっている。
最初が原曲で二曲目、三曲目がふかわりょうの作品らしい。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3822209

ただ三曲目はちょっといいかもと思ってしまう。ベースの選曲といいふかわりょうには隠された才能があったようだ。
しかしほんといい曲である。

音楽はオープンソース的

最近はまっているのはニコニコ動画の「フューチャーポップで うなされて」シリーズ。まあ試しに聞いてみてよ。
【作業用BGM】フューチャーポップで うなされて Vol.17
少しずつ音楽が解放されていくのを感じる。音符をしばることなんて誰にも出来ない。著作権管理団体も消えてなくなり、全てのメロディは自由に改変可能になり、どんどんリファクタリングされていく。原典は聖域として残り、少しでもよい音を加えたものが更新され続ける。尊敬と鑑賞と愛情だけが残る。はやくそんな世界になればいい。
これから登場する若い音楽家たちはメジャーレーベルなんて知らない。金を得ようなんて思ったこともない。曲をニコニコ動画で発表してユーザーとのインタラクションこそ全ての動機だと認識している。音楽を商業媒体の上でしか考えられないロートルたちは曲だけ残して早く死ねばいい。
誰がオリジンかなんて関係ない。地球上の全ての人で作品を作る。練り上げていく。これからはそういう音楽家たちで満ち溢れる。多分これは最後の革命。人類が残せる最後の子ども。

ネグレクト事件について

ちきりん氏の話「誰が何をネグレクト?」がまっとうだったので妻に読んでみろというとすでに読んだという。その上で、妻はやはり母親に責任があるという。世の中には母親一人で二人も三人も立派に育て上げた事例がいくらでもあって、じゃあその人たちはどうなるのかと。僕が「その人たちがタフなだけで、母親がみんなそうじゃない。子育てに対して誰かに責任を問うこと自体間違っている。」といっても受け入れられなかった。同じ母親として思うところがあるのかもしれない。

僕はちきりん氏と全く同意見で、離婚して子どもを捨てる父親はクズで即刻死刑にすべきだし、父親に捨てられた母と子は国が手厚い生活保護で生涯サポートすべきだと思う。
僕自身我が家の子育てにはあまり貢献できていない。妻にまかせっきりな面が多い。見てて、本当に子育ては大変だと思う。宮台氏によれば、子どもを専業主婦が一人で育てるようになったのはむしろ歴史的に特異なことだと。それまでは嫁なんて家業の労働力だし、子どもなんて家族みんなでそれこそ地域全体で育てた。そういう環境があったから、子どもは放っておいても育つといわれたのだと思う。これが大前提なのだが、子どもを母親一人で育てるのは不可能なのだ。物理的・経済的・精神的、とにかく絶対に無理だ。それをやりおおせている母親が多いということは、本当にその母親も子どもにとっても不幸なことだと思う。もし専業主婦モデルで子育てをするなら、母親には父親が愛情を注いでやらなければならない。例の事件を見ていて、あの母親は誰に愛されていただろうかと思った。愛情とは無尽蔵に沸くものではない。誰かから与えられて初めて誰かに与えられるものだ。母親なんだから子どもを愛して当たり前などと言う奴はちょっと首でも吊ればいい。
子どもは社会の宝だし、母親だって父親だって宝だ。みんながみんなを愛情を与えあって生きるしかないのだ。あの母親にも、出所したらまた誰かを愛して、今度はちゃんと愛してもらって、子どもを生んで、立派に育て上げてもらいたい。母親はいつだって母親だ。たとえわが子を殺したとしても。