「兵士は勝利を求めて神に祈るが、敵もまた解放を求めて祈っていて、おたがいまったく同じ神に似たような祈りを捧げていることにはあまり気づかない。」13時間前の未来 リチャード・ドイッチ

この世に神様はいないと誰もが思っている。どんな祈りも宛先不明のまま突き返されるだけで、祈りとは思考を停止させて時間だけを進めさせることで事態の打開を図る籠城策でしかないとさえ思う。でも神様はいるのかもしれない。問題は双方の要求が互いに矛盾していることにあるのではないだろうか。りんごがひとつしかないのに、AさんもBさんもそれを欲しいというなら、神様は困ってしまう。神様にとることのできる選択はひとつしかなくなる。AさんにもBさんにもりんごを与えないことだ。その状況であれば、Cさんもりんごを欲しがることができる。神様が何もしてくれないことで、AさんもBさんもCさんも可能な限り最大限に幸福な状態でいることができる。結局、自分でなにもかもやるしかないという結論になる。できないことは神に祈って、できることを淡々とやり続けることがよい。神様を介している限り誰もが幸福である。最悪なのは、りんごを欲しいと神様に祈らない人間がいることだ。彼らは神に祈るまでもなく、りんごが手の届くところにあり、手を届かせ、むしりとりかじり切ることができる。神様にとれる最適解が何もしないことで幸福をバランスさせるというものである以上、この乱暴な手を払いのけることはできない。Dさんは神様に祈っていないので、神様はりんごがむしりとられることを感知することはできない。神は存在するけれど、それは全ての人が神に同じ水準で祈りを捧げられる状況でしか存在できない。じゃあどうすればいいのかというと、祈るしかない。できないこと手の届かないことを祈るのではなく、可能範囲内のことだけを祈ることだ。今日もコーラが飲めますように。今日も無事仕事を終えて娘の笑顔を見れますように。今日もおいしいご飯が食べられますように。短期的に実現可能なことを祈り続ける。その願いの大半は叶うだろう。なんだ神様は、いるじゃないかと誰もが思う。この世に怖いものなんてない。何しろ神様がついている。