なぜ性を売るのがダメなのか

http://togetter.com/li/567130
性を売るのはおおいに結構だが売り方に問題がある。普通商品というのは規格化されているものだ。どこの店に行っても入手可能だ。しかし性を売っている女性というのは不特定多数を相手にしていない。特定の狭い範囲の人間にだけ性を売っている。これが問題である。上記リンクでババアに性売買の正当性を訴えている19歳女性を私が買いたいと思っても買うことが出来ない。地理的経済的家庭的問題もあるのが何よりも彼女らは性を売っているといいつつ商品として店に並んでいないではないか。
店に並ぶとはどういうことか?それは無修正ネット動画に出演するということである。そうすれば世界中どこからもアクセス可能な商品として立派に成立しうる。無修正動画としてtorrentでもって世界拡散されてこそ商品であろう。
世界を相手に商売してこその商品である。勘違いしないでほしい。

頑張っている人間は不潔だ

「何事かに捉われて生きれば、時の経つのは早い。捉われずに生きる決意をするのに、早すぎることはない。詩仙堂の時はしずかに流れた。時がしずかに流れるということ……世の中と折り合って生きる代りに、自分と折り合って生きるということじゃ」
三題噺 詩仙堂志より

夢中になることはもっと戒められるべきではないか。熱意とは単なる快楽消費でしかないのではあるまいか。必死に何かを頑張っている人を見ると吐き気がするのもうなずける。他人のセックスを見て感じる感情と似たようなものだ。自分との連関の薄さとそれにも関わらず自分へと伸びてくる人間の型枠の狭さ。本当に不潔で醜いものだ。

現代はプログラマの時代か

「おれはもうあきらめちゃったんだ。どう言ったらいいか分からないんだけれどね。要するにおれなんてのは資格がないらしいんだ。つまりね、おかしなたとえだけれど、いまや一つには中島みたいなやつらの時代らしいんだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。もちろん中島でなくたっていい。つまりなんらかの大いなる弱みとか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるべくドギツく汚く大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうなんだ。とにかく売りこむためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚くてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そしてそうなりゃもう誰だって、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりはズバリセックスとか汚いものとかをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。」

赤頭巾ちゃん気をつけて

かえりみて現代は誰の時代だろうか。それはもうどう考えたってプログラマの時代だろうと思う。そして時代の主役たちに共通の役割とは何も生み出さないということだ。主役は環境の消費者たるから主役で、生産者ではない。彼らが活き活きとしているのは傍目にも明らか。そして彼らには圧倒的に知性が欠如していてそのノーテンキさに目を覆うばかりである。主役に唯一欠如しているのは知性だ。彼らはそれに気づいているだろうか。プログラマは現代の暴君だ。誰よりも強く批判にさらされるべきだがどこからも攻撃の矢はない。プログラマにもっと言ってやらねばならぬ。ミミズみたいな脳髄撒き散らすんじゃねぇゴミくずどもが。

漱石先生の鋭い指摘

「して見ると二十世紀の人間は自分と縁の遠い昔の人をidolizeするよりも自分と時を同じくする人を尊敬する、または尊敬し得るようになったのである。
この傾向を極端へ持って行くと自己崇拝ということである。(Individualism, egoism)
(否? むしろ我々はegoismから出立するのではないか?自己崇拝が第一で、他人はむしろ第二に来るのではないか。やむをえないから他を崇拝するのだろう。古人は崇拝しなくても好いが崇拝しても自分の利害に関係しないから別の世界の事だから公平に崇拝するのだろう。今人は同時に生きているから何だ蚊だって悪く見えるのだろう。うちの下女が世間に対してはえらい旦那の欠点を列挙するようなものだろう。
古人崇拝が衰え、今人崇拝が衰え自我崇拝が根本になる。今の日本人が西洋人の名前の新しいのを引張って来るのはこれらを崇拝するよりもこれらを口にするprideを得意とするのだからつまりは他をadmireするの声でなくって自己をadmireするの方便である。」

漱石文明論集より

記憶の統廃合

今日xkm走ったという記録をつける。明日もつける。しかしもしマラソン大会に出場したならば、今日走ったなどという記録をつける必要はなくなる。それまでの過去の記録は全て無意味となる。
一年間つけつづけたジョギングログは、たった一度の大して成果の残せなかった大会の記録で置き換えることができる。
甲子園と共に無為にした青春も最後の甲子園が過ぎることによって全て昇華される。
我々はそうすることで、もともと意味などなかった過去を無意味として片付けることができる。それまで無数のバラバラだったデータを一つに統合して扱うことができるようになる。それはマラソン大会になり甲子園になる。
過去を精算することなしに前進などありえない。扱えるリソースに限りがある以上抱え続ける過去が多いほど身動きができなくなる。
人の忘却機能によって脳の健全性が保たれるといっても果たしてそれがどこまで信用できるものか。もっと積極的に過去を減らしていくべきではないか。過去を精算するためには記録を残すことである。日々の記述をより統合できるカテゴリーとして記録することである。

数年来未解決としてあった課題が今日片付いた。
毎日違う女性と寝ることをライフワークとしブログに女性の写真とともにセックスの記録を残していた人のことだ。
その多くの記録はたった一人の子供で置き換えることができるのだ。彼はその子供が作られるまでその記録を続けなければならないのだ。

男性には強い性欲望がある。その無数性と多様性は大きい。家族を持つことでそれを一つにすることができる。どれだけたくさんの女性と寝ようがどれだけたくさんの衝動に苦悩しようが性は家族に集約されるものだとしたら、その問題はもう解けたのだと思う。